まるくくらす

日々の暮らしを少しでも気分良く過ごすために考えていることとか・・・

LO的 ワークライフバランス? ライフワークバランス?

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

ワークライフバランスとは・・・仕事と生活の調和。

ライフワークバランスとは・・・生活と仕事の調和。

国民一人一人がやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事の上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった各段階に応じて多様な生き方を選択、実現出来ること。

会社側からすれば「ワークライフバランス

個人からすれば「ライフワークバランス」

会社と個人がせめぎあう中で、一番の方法を選択すべく、調整すること。

そのためには、自分にも、会社にも譲れないらいんがあって、それを揺るがすことが調和を乱すことと考えます。
ただ、「仕事」の内容というのは一つであっても、方法は多種多様です。

その多種多様の仕事の方法について「見える化」することが、仕事のミニマム化にもつながります。

仕事の流れと、仕事の手順が「見える化」することによって、ワークの内容が俯瞰出来るし、自分が今出来る部分が見えてきます。

そして会社が求める部分も見えてくるので、そこをどう埋めるかと考えることこそが「調整」といえるのです。

その調整に必要なのが、自分軸であり仕事軸となります。

先ほどの自分にも会社にも譲れないラインにはこの「軸」が必要不可欠です。

 

私は派遣契約で仕事をしています。
私にはどうしてもゆずれなかったラインがあります。
そのために、譲れないところを派遣先にお願いし、どうしても無理な時には自分自身で調整してきました。
それをわがままととられようとも、優先順位を変えるわけに行かなかったからです。

そして、その優先順位を決めることがライフバランサーでもありました。

もちろん、私の軸が他の人に当てはまることは決してなくて、逆もまた然りでした。

だから、今言われている「ワークライフバランス」は会社が社員に対して当てはめることになり、本来の仕事と生活の調和とは言えない気がするのです。

なんだか「いうとおりに働け」と言われている気がしてしまうのです。

休みもある。
有休もある。
だから、いうとおりに働け。

日本のホワイト企業あるあるな光景。

 

そもそも「有休」「休日」は会社側が設定し、社員が合わせることが日本らしい。
土曜日も仕事だったのも、働けば働いただけ、ものを作って、売って、利益が出たから。

そして、そのころは保険も年金も、休日も会社任せが多く、社員は働くことがマストであって、そこの知識は乏しかったこともあるかと思います。
メーデーはあって、労働環境の整備はあって、法は目に見えるところを整備するし、会社もそれに則ります。
法律とは、最低限のラインであり、そこから先の社員と会社の関係は自分たちで構築していかなくてはいけないものです。

そして、社員一人一人の都合も踏まえたうえでうまく調整するのが上司となる人の力だと思うのです。
それを判をついたように「みんなやってるから」は子供がいうことと一緒です。

「よそはよそ、うちはうち」

この場合は家庭ではなく仕事ですから、自分の会社にあうスタンスを作れた言い訳です。
法に則って押さえておくべきところは押さえておけばいい。

この考え方は「ブラック」を生むし、「ホワイト」も生む。

仕事は通り一遍ではありません。

自分たちが会社の中で滞りなく仕事できるように働き方を変える。

誰か一人に合わせるのではなく、誰にも合わせないのではなく、一人ひとりが妥協点を見つける。

製造業の場合、ワークライフバランスと一定の品質保持は会社の中で水と油だと思います。

 

シェイクしてもすぐに分離してしまう水と油。

お互いに思い立ったら思い切りシェイクすればいい。

混ぜればいい味になるだろう、混ぜなければまずいままだから。

LO的 文具へのこだわり

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

落ち着くための行為。
私はメモを取ることで、落ち着くみたいです。
ライフオーガナイザーになり、日々の生活や、自分の内面などを見直す中で、自分はこうすればどう思うのか・・・がここ最近の考え事の№1です。

そんな中で、心が揺れた時、不安になった時、自分はどうすれば落ち着くのか。
突き詰めると、何かしら書くこと。
そう思うと、昔から紙と鉛筆を必ずカバンに入れていました。
友達の家に行くときも、カバンの中には紙と鉛筆。
特別何かを書くわけでもないし、友達の家に行けば、友達が紙も鉛筆も貸してくれるにもかかわらず、カバンの中には紙と鉛筆。
小学校に入る前はチラシで作ったメモ用紙に鉛筆。
小学校に入ったら、筆箱とチラシメモ帳。
中学校に入ったら、シャープペンシルとお気に入りのノート。
高校に入ったら、ボールペンとルーズリーフ。
今では、ボールペン(Jetstream)とA5ノート。
ボールペンはSARASAでもOK。

今ではノートは無地か方眼紙がいいけれど、A版B版でも線に沿わずに書き進めるため、あまり関係ないのかもしれません。

ただ、スケッチブックタイプは文字を書くには不向きです。

筆圧が高いので、スケッチブックのように紙に厚みがあると、沈み込んでしまって余計に疲れてしまうからです。
あとは、昔使っていたチラシのメモ帳。
光沢のあるチラシはインクが滑るので、書きにくい。

ボールペンに注力したため、ノートは適当でもいいというのが本音ですが、この適当さゆえに、時々失敗します。

今の私には正方形ノートがブーム。
クラフト紙のノートを100均で見つけて、即購入。
使っていますが、クラフト紙は手の油の後までも残してしまいます。
ハンドクリームを塗った後に使うと、てきめんにノートの紙色が変わってしまうのです。あとはリングノートなので、リングが大きくて邪魔。
とはいえ、ブログのネタを書いたり、メモったりするには、ちょうどよく、重宝しています。

一番小さい時の思い出として、母親のバッグの中にメモ帳とボールペンが入っていたのが、自分もバッグに紙と鉛筆をいれるきっかけだったかもしれません。

何かの折に、母親のバッグに入ったメモ帳とボールペンのセットがとても格好良く見えたのです。

ノートはメモ帳サイズで細いリング。昔のメモ帳です。
ボールペンはキャップ式のもの。カバーが長くて、ペン先の後ろに差し込んで使う、ちょっとおしゃれなものでした。

母親はメモ魔らしく、家計簿などもきちんとつけている人でした。

ただ、私はこの年になっても、あの頃の母親のような家計簿はつけられないのですが・・・

メモをする習慣、メモを持ち歩く習慣だけは抜けていないようでs、スケジュール長もメモ欄が多い方が安心できるのです。

昨年から愛用しているのは、トラベラーズノート

自分でマンスリーやウィークリーなどカスタマイズできます。

ノートもセット出来るので、トラベラーズノートがあれば、安心できるのです。

もう一つ、クオバディスもおすすめです。

私の中では、クオバディスは仕事の出来る女性が持つというイメージがあります。

品があるので、気持ちをワンランク上げたいときに持つと、背筋が伸びる気がします。

クオバディスを使っていたときは、仕事をメインに考えていたような気がします。

今はトラベラーズノート

これはアクティブに動きたい今だからこそ、持ちたいと思っているのかもしれません。

自分で何かを使うときに決めること。

それは、パーフェクトにこだわらないということ。

欠点があっても、それすら愛でるポイントだと思うこと。
欠点をカバーしてしまうくらいの長所があること。

これが、私にとって大切に扱うことの軸。

文具は消耗品ではあるけれど、軸があれば大切に使おうと思うし、また長く使おうと使い方が丁寧になります。

まるくくらす・・・それは丁寧に生活することでもあるので、自分を考えた時に大切なことなんだと思うのです。

LO的 もう少し様子を見ることにしました

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

GWはバタバタと終わってしまい、衣替えはGW終了後となりました。

といっても、Tシャツを出して、セーターをしまうだけ。

ジーンズは通年だし、オフィスカジュアルもほとんど通年バージョン。

特にオフィスカジュアルは、冷房との兼ね合いもあり、カーディガンなどが必需品のため、よほどのことがない限り、半そでで会社に行くことはありません。

夫はスーツがクールビズになる程度で、まだまだネクタイを外しただけ。

本格的な衣替えは梅雨明け後になりそうです。

 

さて、タイトルにある「様子を見る」。

これは義理ママについてです。

少しずつですが、夫にもわかるような行動が見られるようになりました。

ちょっとずつ文字を書いたりするのを嫌がるようになりました。

住所は何かを見ないと書けないようです。

電話番号も言えない感じです。

誕生日は言えたんですけどね・・・

徘徊はないので、誕生日と名前が言えればいいか・・・と思っています。

ただ、夫と三人で役場に行ったときに、夫に書類を書いてほしいと頼んでいました。

夫が書くと、夫の身分証明まで必要になります。

義理ママはその辺が分かっていないので、つい頼るのでしょう。

私は義理ママの書類は義理ママに記載してもらいます。

でないと、必要以上に私たちの身分証明までしなくてはいけないからです。

印鑑や運転免許証などの身分証明書が必要になる場合もあります。

義理ママの書類、義理ママ本人が役場で手続きすることで、そういう負担を避けているのに義理ママにはそれが分からないようで・・・

これは、もともとのことで、認知症とは違うものだと思っています。

いままでしっかりしていた人が何もやりたがらなくなった・・・認知症のサインです・・なんて記載もあります。

それは、年齢とともに億劫になってくることはあっても、自分のことを自分でしようと思うことが元気でいる秘訣だからだと思うのです。

義理ママにはそれが根本的に欠けているのです。

夫は息子であるためか、必要以上に義理ママを心配して、先回りしてしまうからかもしれませんが、義理ママは本当に何も知らないのです。

箱入りとか世間知らずとかそういうのとは違って、義理ママの世界にはなかった・・・それだけだと思います。

仕事はしていたし、パートや内職もしていたので、知らないわけがないと思っていましたが、基本的に知らない範囲のことを知ろうとする感覚がないのかもしれません。

知らなくても生きてこれた・・・こんな幸せなことはないと思いますが、私には考えられないことでもあります。

そんな風に思うと、自分ではない人なわけですから、何かにつけイライラしてしまうのは損だなぁと思うようにもなりました。

自分だったらこうするのに・・・と思えばイライラしますが、自分ではないのだから仕方がない。

自分だって周りでイライラされたら、嫌だなぁとか。

そう思うと、義理ママのペースを崩させたくはないなぁと思います。

ただ、義理ママに合わせるだけではこちらも大変なので、自分が寄り添えるラインまでは寄り添う。

それ以上になる場合は、夫に頼る。

私の中で同居を始めてから少しずつ変えていったことです。

いきなり相手に不満をぶつけても、相手にだって不満はあるはずです。

それがお互いに折り合える関係だったり、余裕があればいいのですが、全く世界観の違う相手と急にそんなことが出来るわけがありません。

夫とでも世界観が異なることはよくあるのに、そうではない人であればなおさらです。

同居して、老いていく姿を見続けるということは、とても大変なことなんだなぁと思います。

老いていく・・・自分ではわからないくらい、少しずつ老いていく。

その変化に気づければいいのですが、毎日のことでついつい見逃してしまいます。

アハ体験ではありませんが、知らない間に変化してしまっていくものなのかもしれません。

だからこそ、気づいたことをあったら、それを経過観察することにします。

早いと2週間後には違ってくるものです。

1ヵ月、もしくは季節の変わり目など、気にかける部分を決めておくだけで、変化が分かるようになります。

熱くなったのに、半そでを着ない・・・これは体温調節がうまくできなくなっているのかもしれません。

熱中症にも気を付けないと、長袖でいる分水分が出てしまっているかもしれません。

冬は欠陥の病気を心配しますが、夏は熱中症低血糖に気をつける必要があります。

今は名前と誕生日は言える。文字も書くことが出来る。

来年も同じように自分の名前と誕生日を言って、文字が書けることを祈りたいと思います。

子供の成長は早いと思いますが、認知症の速度も思ったよりも早いのです。

LO的 片付けのタイミング

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

年度末は何かと忙しくなります。

「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、本当にお彼岸を境に一気に服装が変わるものです。

冬のコートを薄手に変えて、セーターをカットソーに変えていくので、洋服の厚みが減ると同時に、脱ぐことのできない自前の脂肪を目の当たりにするのもこのころです。

体もクリーニングしたくなるこの季節は、片付けにも頭を悩ませます。

でも、少しずつ変えていきませんか?

 

私は、2つの点でイラッをなくそうと思いました。

1点目、クリーニング代もかさむので、出来るだけ自分でケア出来るものを選ぶようになりました。

といっても、革やコーディロなどの本当にお手入れが大変なものは出来るだけ購入時に考える・・というようなものです。

もう一つは、片付ける場所の確認。

クローゼットや押し入れにどれを吊って、どれを収納するかを考えました。

冬物で一番困るのはコート、次にセーター。

現在は、コートはつるして保管。セーターはたたんで保管。

そのおかげもあって、だいぶん片付けに迷いがなくなりつつあります。

 

また、ボトムについては冬専用のものは少なくて、ほとんどがオールシーズン。

そうすると、セーターをカットソーやカーディガンに変えるだけで、自分的には衣替えすら終わった感じがしてしまいます。

自分の分はこれで衣替えを終えることが出来ます。

 

うちの場合、夫の方が衣装持ち。

そして「セーター」「ヒートテック」など、季節ごとに着るものを決めるタイプのため、こちらが主に衣替えの主となります。

そんな中、少しずつ計画していったのが、Tシャツ。

オールシーズン着用するため、衣替えの対象にはせず、一年中タンスに入れておきます。ボトムは本数がないので、冬場は冬物を手前に、夏場は夏物を手前に持ってくるだけでOK。

手前のものから手にする傾向がある夫にはこれで十分のようです。

靴については、私はブーツを引っ込めて、春~秋のパンプスやサンダルに変えるのが衣替えの一環です。

夫はビジネスは革靴、休日はスニーカーなので、下駄箱で事足ります。

 

軽くなったとしても、1年に2度は衣替えを行います。

そんな時に、数が多ければ多いだけ、面倒くさくなるものです。

私は押し入れに入れるボックス一つのみ。

靴はお気に入りのスカーフで包むだけ。

それなりに楽しめるので、苦痛ではありませんが、家族の分を一手に引き受けるとなると一日以上かかってしまうことになりかねません。

片付けのタイミングとしては、GW。

片付けたくて仕方がないものを選んで片付けましょう。

「これだけは片付けたい」と思うものを思う場所に片付けるために、他の片づけが必要・・・なんて本末転倒ではありますが、そうやって先延ばしにしてきたことも多いはず。

「こんどこそ」も何度も思ってきたことかもしれません。

そんな時、「ライフオーガナイザー」にご一報ください。

お金はかかるでしょうが、一度で済むなら、頼んだほうが後々楽になることもあります。

衣替えの季節、よかったら、声を掛けてください。

LO的 毎日が情報収集 その2

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

引き続き、同居中の義母についての覚書みたいなものです。

精密検査を受けていただきました。

病院からは慌てて入院を勧めることもないので、楽観視しています。

とはいえ、義母のことを見ている余裕のなかったここ数か月。

少しは義母を見て、変化に気づけるようになりました。

義母は「出かける」というと、身だしなみを整える。

美容院にも行く。

お薬の飲み忘れは多いけれど、最終ラインのインシュリンだけは必ず忘れない。

出発時間を伝えれば、それに合わせて行動できる。

部分的な脳の障害はあるかもしれませんが、全体的な認知障害とは異なる気がするのです。

 

今年は実家の母親の入院、退院、実家の父親の入院と退院、やっとおちつく三月半ば。

そのはずだったのに、義母の兄弟(長男、独身)が脳溢血で倒れて入院となり、その世話や入院費用をめぐり、兄弟でいろいろと内紛している様子。

耳の遠くなった義母にとって、聞こえなくていいことではあると思う反面、兄弟のことだから心配だと思うと、それはそれでストレスになるだろうと考えてしまう。

半身まひで、時折危篤状態になることもあるらしいと、この間初めて義母が話した。といっても、義母は蚊帳の外らしい。

義母は自分で車を運転することも出来ないので、誰かに頼らなくては出かけることができない。

それを知っている兄弟は、義母への連絡を後回しにしているのかもしれない。それがいいことか悪いことかはわからないけれど、義母は受け入れているようにも見える。もちろん、こんな時にだけしゃしゃり出てくるヒトは必ずいるけれど、最終的に独身の長男の面倒を見るのは誰なのか?

近くに住む兄弟?兄弟が無理ならその家族?家族といっても、自分たちの暮らしがありリズムがあるわけで・・・

自分たちは昭和スタイルで暮らしてきたとしても、子供家族はすでに自分たちのスタイルを確立して生活しているのだから、そこを曲げろというのは衝突を生むだけ。

自分の面倒を見てほしいという親の気持ちは汲めても、親の兄弟まで近くに住んでいるのだからという理由で面倒を見るのはわけが違う。

いつかは出るだろうと予想はしていたけれど、自分たちが軸を持って意見を言えなければ、感情的になってしまうだろうと思う。

自分も年を重ねるということは、周りも年を重ねるということ。

自分たちだけで解決できることが少なくなっていくのも、体の衰えとともに感じます。

しがらみは少ないほうがいいけれど、周囲と関係性のある地域に住めば、それは決して切り離すことのできないことだと思います。

昔の風習というよりも、昔の人がまだ生きているのだから、その人の価値観や習慣を相手に押し付けるのは当たり前で、そうやって過ごしてきた人に、今更自分を変えようと諭す気はありません。

ただ、「あなたの当たり前を私は受け入れられません」と言い切るだけの軸を持つことが出来れば、少しは楽になれるような気がします。

言いたいことはいうけれど、相手の価値観を変えさせたいとは思わないし、つぶしてしまおうとも思っていないのです。

ただ、「そういう考え方があるんだなぁ」と思うにとどめる。

そうして、自分ができる範囲のことをするのが、相手にとって一番の誠意ではないかと考えます。

相手を恨みたくない。

相手のせいにしたくない。

自分が出来る範囲で出来るだけお手伝いする。

今の私のスタンスはこれに尽きるのです。