LO的 片づけとモチベーション
「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」
ライフオーガナイザー Kuraです。
毎年5月と6月はモチベーションがアップします。
というのも、ライフオーガナイザーのチャリティイベントがあり、年に一度のイベントにスタッフとして参加しているからです。
自分でも勝手だなぁと思いますが、ライフオーガナイザーと名乗っていても、家が眩しいくらいに綺麗なわけでもないし、片付いた部屋に住んでいるわけでもありません。
日々、どうすればいいかを模索しているライフオーガナイザーなのです。
ただ思うのは、片づけたいと思うモチベーションこそが、私には一番薬。
片づけたいなぁと思っているだけでは、片付きません。
何かしたいなぁと思っているだけでは、何も始まりません。
片づけるという行動を自らが起こす。
本来は、目標を見据え、その目標に向かって計画し、実行していくことがライフオーガナイザー的というべきですが、私は目標を立てて、計画した段階でいったんストップがかかってしまいます。
すると、そこで「片付いた」感が80%になり、「あとは片付けるだけ・・・」という気持ちになってしまうことで、モチベーションが一気に下降します。
すると、目標と方法で手が止まり、気持ちが止まります。
前はそんな自分が嫌でした。
でも、今ではそれも「私」なのだと思えるようになり、モチベーションを無理に上げたりすることもなくなりました。
自分自身のことでもあり、モチベーションの上げ方はそれなりに分かっています。
ただ、いつでも上げればいいというものではなく、自分なりにどこかスイッチを上げるタイミングを計っている。
そう思うと、目標と計画を立てるところまでできていれば、安心だな。
なんて思えるようになりました。
インテリアや間取りなどはあまり気にする方ではないので、あるべき場所にあるべきものが収まっていることが私の中の片づけルールになります。
そのため、日々たまる紙類が一番の敵になります。
貯めるものではなく、溜まるもの。
そして、大概が早くに不要となります。
レシートはその日のうちに、もしくは次の日の朝にゴミ箱へ。
銀行引き落とし連絡は、引き落とし日の前にゴミ箱へ。
そんな風に、溜まらないようにすることは片付けの計画ではなく、ルーティンに含まれるようになりました。
最初はルールにのっとって、モチベーションが上がるまで片付かなかったもの。
それをルーティン化まで落とし込むことで、溜まる書類が少しずつ減っていく。
癖付けです。
癖にするには、3週間ばかり必要になる。
三日坊主とよく言いますが、三日すぎると一週間目に満足してやめてしまうことがあります。
ですから、三日継続した、一週間継続した、10日経った、いつの間にか15日になり、20日が経過した。
こんな風になって初めて、それをしないと落ち着かない・・・なんていう気持ちになる。
私はそれをお金のオーガナイズをすることで始めて、今でも続いています。
週末は溜まるレシートも月曜日の朝にはすっきりしている。
溜めてしまうのも自分だし、すっきりするのも自分。
自分だけで完結できるからこそ、続いているような気がします。
自信になったというのは少しおこがましいけれど、大々的に片付けたいとおもうモチベーションとは違う次元で、気持ちよく過ごしたいと思うためのルーティンを増やすことで、片づけが大きなイベントではなく、小さなイベントの積み重ねとなるのだと思います。
片づけって大層なものじゃありません。
そう思っていただいて、身の回りがちょっと変わったら、自分で褒める。
褒めてくれる相手がいなかったら、私に連絡してください。
褒めますよ!!
LO的 もう少し様子を見ることにしました2
「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」
ライフオーガナイザー Kuraです。
先日、「LO的 もう少し様子を見ることにしました」を書きましたが、やはり気になるのでもう少し・・・
以前は息子や娘に分かる程度・・・ではありましたが、義理ママの兄弟にも分かるような行動になりました。
前は、頑張っていたのですがね。。。
住所を書いてと言われた場所にバランスよく書けない。
これは、私たちでも文字の配分を間違うことはありますが、全部書きたいのに配分を間違う・・・ではなく、市町村番地で「住所」と認定出来なくて、市町村まで、番地はどうした!!
文字については、手の力が少しずつ弱くなってきていることもあるし、ボールペンが書きにくそうだったこともあったので、そこは良しとしました。
なんでもそうですが、生きている以上、本人の自筆を求められることが多くなります。
問診票やはがきの返事などは代筆できますが、お金の絡む書類は自筆が求められることが多くなります。
そして高齢化してきている現在では、義理ママの兄弟が亡くなり、義理ママが生きている場合は、遺産相続という面倒くさいことも発生してしまい、それに伴う書類にはすべて自筆を求められてしまうのです。
今回は、義理ママの弟(長男・独身・持ち家あり)が亡くなったことで、持ち家の土地と家を誰が相続し、銀行の解約をどうすればいいのか・・・
義理ママはもうすぐ80歳になります。
その前後に兄弟がいるわけですが、全員が周辺に住んでいます。
まず、手続きの仕方も知らない。
もしくは手続きの仕方はわかっても、自分で手続きにいけない。
自筆と印鑑は相続者として必要。
兄弟が多ければ多いだけ、取りまとめる人が必要になる。
そんな中、色々と兄弟達が持ち回りで行っている中、義理ママはまぁ言えば蚊帳の外。
自筆と印鑑、証明書だけを求められるわけです。
書類とはいえ、何に印鑑が必要なのか?
印鑑証明や戸籍抄本はなぜ必要なのか?
こちらとしては、不安になります。
そのため、必要以上に聞いてしまうのです。
でも、義理ママは全く分からない。
分からないのか、理解しようとすることを放棄したのかはわかりません。
息子と娘がいるから大丈夫。
そんな態度が見え隠れして、自分のことなのに、他人ごとのようで、なんだかモヤモヤするのです。
兄弟の中で守りをする相手に対しても、何も感慨がわいていないようにも見えます。
今回対象となっているのは、自分の過ごした実家です。
それに実家が無くなるかもしれないのに、そこにも何の感情も沸いていない気がします。
自分が今住んでいる家じゃないからでしょうか?
でも、私が結婚したての頃は、もう少し感情が見えていたような気がします。
少しずつ何かが欠けていく感覚。
それは記憶だけじゃない。
感情もなんじゃないか?
記憶や、行動だけじゃなく、感情が欠けてしまうのも、認知症の一つの症例でもあるように思います。
おいしいものをおいしいと思って食べてほしい。
面白いと思って、毎日を過ごしてほしい。
そう思うのはこちらの勝手であって、毎日穏やかに、何事もなく過ぎていくことが、認知症となった人たちにはとても大切なことなのかもしれません。
穏やかに過ごしてほしい。
でも、出来れば感情は失ってほしくない。
そんなジレンマが生まれた出来事でした。
LO的 ワークライフバランス? ライフワークバランス?
「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」
ライフオーガナイザー Kuraです。
ワークライフバランスとは・・・仕事と生活の調和。
ライフワークバランスとは・・・生活と仕事の調和。
国民一人一人がやりがいや充実感を持ちながら働き、仕事の上の責任を果たすとともに、家庭や地域生活などにおいても、子育て期、中高年期といった各段階に応じて多様な生き方を選択、実現出来ること。
会社側からすれば「ワークライフバランス」
個人からすれば「ライフワークバランス」
会社と個人がせめぎあう中で、一番の方法を選択すべく、調整すること。
そのためには、自分にも、会社にも譲れないらいんがあって、それを揺るがすことが調和を乱すことと考えます。
ただ、「仕事」の内容というのは一つであっても、方法は多種多様です。
その多種多様の仕事の方法について「見える化」することが、仕事のミニマム化にもつながります。
仕事の流れと、仕事の手順が「見える化」することによって、ワークの内容が俯瞰出来るし、自分が今出来る部分が見えてきます。
そして会社が求める部分も見えてくるので、そこをどう埋めるかと考えることこそが「調整」といえるのです。
その調整に必要なのが、自分軸であり仕事軸となります。
先ほどの自分にも会社にも譲れないラインにはこの「軸」が必要不可欠です。
私は派遣契約で仕事をしています。
私にはどうしてもゆずれなかったラインがあります。
そのために、譲れないところを派遣先にお願いし、どうしても無理な時には自分自身で調整してきました。
それをわがままととられようとも、優先順位を変えるわけに行かなかったからです。
そして、その優先順位を決めることがライフバランサーでもありました。
もちろん、私の軸が他の人に当てはまることは決してなくて、逆もまた然りでした。
だから、今言われている「ワークライフバランス」は会社が社員に対して当てはめることになり、本来の仕事と生活の調和とは言えない気がするのです。
なんだか「いうとおりに働け」と言われている気がしてしまうのです。
休みもある。
有休もある。
だから、いうとおりに働け。
日本のホワイト企業あるあるな光景。
そもそも「有休」「休日」は会社側が設定し、社員が合わせることが日本らしい。
土曜日も仕事だったのも、働けば働いただけ、ものを作って、売って、利益が出たから。
そして、そのころは保険も年金も、休日も会社任せが多く、社員は働くことがマストであって、そこの知識は乏しかったこともあるかと思います。
メーデーはあって、労働環境の整備はあって、法は目に見えるところを整備するし、会社もそれに則ります。
法律とは、最低限のラインであり、そこから先の社員と会社の関係は自分たちで構築していかなくてはいけないものです。
そして、社員一人一人の都合も踏まえたうえでうまく調整するのが上司となる人の力だと思うのです。
それを判をついたように「みんなやってるから」は子供がいうことと一緒です。
「よそはよそ、うちはうち」
この場合は家庭ではなく仕事ですから、自分の会社にあうスタンスを作れた言い訳です。
法に則って押さえておくべきところは押さえておけばいい。
この考え方は「ブラック」を生むし、「ホワイト」も生む。
仕事は通り一遍ではありません。
自分たちが会社の中で滞りなく仕事できるように働き方を変える。
誰か一人に合わせるのではなく、誰にも合わせないのではなく、一人ひとりが妥協点を見つける。
製造業の場合、ワークライフバランスと一定の品質保持は会社の中で水と油だと思います。
シェイクしてもすぐに分離してしまう水と油。
お互いに思い立ったら思い切りシェイクすればいい。
混ぜればいい味になるだろう、混ぜなければまずいままだから。
LO的 文具へのこだわり
「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」
ライフオーガナイザー Kuraです。
落ち着くための行為。
私はメモを取ることで、落ち着くみたいです。
ライフオーガナイザーになり、日々の生活や、自分の内面などを見直す中で、自分はこうすればどう思うのか・・・がここ最近の考え事の№1です。
そんな中で、心が揺れた時、不安になった時、自分はどうすれば落ち着くのか。
突き詰めると、何かしら書くこと。
そう思うと、昔から紙と鉛筆を必ずカバンに入れていました。
友達の家に行くときも、カバンの中には紙と鉛筆。
特別何かを書くわけでもないし、友達の家に行けば、友達が紙も鉛筆も貸してくれるにもかかわらず、カバンの中には紙と鉛筆。
小学校に入る前はチラシで作ったメモ用紙に鉛筆。
小学校に入ったら、筆箱とチラシメモ帳。
中学校に入ったら、シャープペンシルとお気に入りのノート。
高校に入ったら、ボールペンとルーズリーフ。
今では、ボールペン(Jetstream)とA5ノート。
ボールペンはSARASAでもOK。
今ではノートは無地か方眼紙がいいけれど、A版B版でも線に沿わずに書き進めるため、あまり関係ないのかもしれません。
ただ、スケッチブックタイプは文字を書くには不向きです。
筆圧が高いので、スケッチブックのように紙に厚みがあると、沈み込んでしまって余計に疲れてしまうからです。
あとは、昔使っていたチラシのメモ帳。
光沢のあるチラシはインクが滑るので、書きにくい。
ボールペンに注力したため、ノートは適当でもいいというのが本音ですが、この適当さゆえに、時々失敗します。
今の私には正方形ノートがブーム。
クラフト紙のノートを100均で見つけて、即購入。
使っていますが、クラフト紙は手の油の後までも残してしまいます。
ハンドクリームを塗った後に使うと、てきめんにノートの紙色が変わってしまうのです。あとはリングノートなので、リングが大きくて邪魔。
とはいえ、ブログのネタを書いたり、メモったりするには、ちょうどよく、重宝しています。
一番小さい時の思い出として、母親のバッグの中にメモ帳とボールペンが入っていたのが、自分もバッグに紙と鉛筆をいれるきっかけだったかもしれません。
何かの折に、母親のバッグに入ったメモ帳とボールペンのセットがとても格好良く見えたのです。
ノートはメモ帳サイズで細いリング。昔のメモ帳です。
ボールペンはキャップ式のもの。カバーが長くて、ペン先の後ろに差し込んで使う、ちょっとおしゃれなものでした。
母親はメモ魔らしく、家計簿などもきちんとつけている人でした。
ただ、私はこの年になっても、あの頃の母親のような家計簿はつけられないのですが・・・
メモをする習慣、メモを持ち歩く習慣だけは抜けていないようでs、スケジュール長もメモ欄が多い方が安心できるのです。
昨年から愛用しているのは、トラベラーズノート。
自分でマンスリーやウィークリーなどカスタマイズできます。
ノートもセット出来るので、トラベラーズノートがあれば、安心できるのです。
もう一つ、クオバディスもおすすめです。
私の中では、クオバディスは仕事の出来る女性が持つというイメージがあります。
品があるので、気持ちをワンランク上げたいときに持つと、背筋が伸びる気がします。
クオバディスを使っていたときは、仕事をメインに考えていたような気がします。
今はトラベラーズノート。
これはアクティブに動きたい今だからこそ、持ちたいと思っているのかもしれません。
自分で何かを使うときに決めること。
それは、パーフェクトにこだわらないということ。
欠点があっても、それすら愛でるポイントだと思うこと。
欠点をカバーしてしまうくらいの長所があること。
これが、私にとって大切に扱うことの軸。
文具は消耗品ではあるけれど、軸があれば大切に使おうと思うし、また長く使おうと使い方が丁寧になります。
まるくくらす・・・それは丁寧に生活することでもあるので、自分を考えた時に大切なことなんだと思うのです。
LO的 もう少し様子を見ることにしました
「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」
ライフオーガナイザー Kuraです。
GWはバタバタと終わってしまい、衣替えはGW終了後となりました。
といっても、Tシャツを出して、セーターをしまうだけ。
ジーンズは通年だし、オフィスカジュアルもほとんど通年バージョン。
特にオフィスカジュアルは、冷房との兼ね合いもあり、カーディガンなどが必需品のため、よほどのことがない限り、半そでで会社に行くことはありません。
夫はスーツがクールビズになる程度で、まだまだネクタイを外しただけ。
本格的な衣替えは梅雨明け後になりそうです。
さて、タイトルにある「様子を見る」。
これは義理ママについてです。
少しずつですが、夫にもわかるような行動が見られるようになりました。
ちょっとずつ文字を書いたりするのを嫌がるようになりました。
住所は何かを見ないと書けないようです。
電話番号も言えない感じです。
誕生日は言えたんですけどね・・・
徘徊はないので、誕生日と名前が言えればいいか・・・と思っています。
ただ、夫と三人で役場に行ったときに、夫に書類を書いてほしいと頼んでいました。
夫が書くと、夫の身分証明まで必要になります。
義理ママはその辺が分かっていないので、つい頼るのでしょう。
私は義理ママの書類は義理ママに記載してもらいます。
でないと、必要以上に私たちの身分証明までしなくてはいけないからです。
印鑑や運転免許証などの身分証明書が必要になる場合もあります。
義理ママの書類、義理ママ本人が役場で手続きすることで、そういう負担を避けているのに義理ママにはそれが分からないようで・・・
これは、もともとのことで、認知症とは違うものだと思っています。
いままでしっかりしていた人が何もやりたがらなくなった・・・認知症のサインです・・なんて記載もあります。
それは、年齢とともに億劫になってくることはあっても、自分のことを自分でしようと思うことが元気でいる秘訣だからだと思うのです。
義理ママにはそれが根本的に欠けているのです。
夫は息子であるためか、必要以上に義理ママを心配して、先回りしてしまうからかもしれませんが、義理ママは本当に何も知らないのです。
箱入りとか世間知らずとかそういうのとは違って、義理ママの世界にはなかった・・・それだけだと思います。
仕事はしていたし、パートや内職もしていたので、知らないわけがないと思っていましたが、基本的に知らない範囲のことを知ろうとする感覚がないのかもしれません。
知らなくても生きてこれた・・・こんな幸せなことはないと思いますが、私には考えられないことでもあります。
そんな風に思うと、自分ではない人なわけですから、何かにつけイライラしてしまうのは損だなぁと思うようにもなりました。
自分だったらこうするのに・・・と思えばイライラしますが、自分ではないのだから仕方がない。
自分だって周りでイライラされたら、嫌だなぁとか。
そう思うと、義理ママのペースを崩させたくはないなぁと思います。
ただ、義理ママに合わせるだけではこちらも大変なので、自分が寄り添えるラインまでは寄り添う。
それ以上になる場合は、夫に頼る。
私の中で同居を始めてから少しずつ変えていったことです。
いきなり相手に不満をぶつけても、相手にだって不満はあるはずです。
それがお互いに折り合える関係だったり、余裕があればいいのですが、全く世界観の違う相手と急にそんなことが出来るわけがありません。
夫とでも世界観が異なることはよくあるのに、そうではない人であればなおさらです。
同居して、老いていく姿を見続けるということは、とても大変なことなんだなぁと思います。
老いていく・・・自分ではわからないくらい、少しずつ老いていく。
その変化に気づければいいのですが、毎日のことでついつい見逃してしまいます。
アハ体験ではありませんが、知らない間に変化してしまっていくものなのかもしれません。
だからこそ、気づいたことをあったら、それを経過観察することにします。
早いと2週間後には違ってくるものです。
1ヵ月、もしくは季節の変わり目など、気にかける部分を決めておくだけで、変化が分かるようになります。
熱くなったのに、半そでを着ない・・・これは体温調節がうまくできなくなっているのかもしれません。
熱中症にも気を付けないと、長袖でいる分水分が出てしまっているかもしれません。
冬は欠陥の病気を心配しますが、夏は熱中症や低血糖に気をつける必要があります。
今は名前と誕生日は言える。文字も書くことが出来る。
来年も同じように自分の名前と誕生日を言って、文字が書けることを祈りたいと思います。
子供の成長は早いと思いますが、認知症の速度も思ったよりも早いのです。