まるくくらす

日々の暮らしを少しでも気分良く過ごすために考えていることとか・・・

LO的 ままならないこともある

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

人生にはままならないことがいっぱいあります。

それを羨ましいと思うのは、当たり前かも知れませんが、ズルいと思うことがないように心掛けています。心掛けるということは、その気持ちが絶対に無くなるわけではないからです。

 

でも、不条理なことは遅かれ早かれ、一度や二度経験します。

外見だけで判断される。

今でこそ「差別」と言えますが、一昔前は「それもアリ」と言う風潮がありました。

 

ただ、声を上げることが出来るようになった分、自分の枠を誰かに当てはめることを許容してしまった気もします。

 

いけないことをいけないと声高らかに言うことはとても大切です。

それに賛同するのも有りでしょう。

 

ただ、それが正義ではないし、常識だと言って、相手を傷つけるのは正直はたから見ていて怖いのです。

 

私の意見は当たり前じゃないかも知れない。

そう思うと、誰かにダメだしされるのではないかと思ってしまうのです。

 

不快に思うことがある。

傷つけられたと思うことがある

自分に対してではないけれど、自分ゴトとして受け取ってしまって、本人たちを置いて一人歩きしてしまう言葉たちが蔓延している気がします。

 

障害を持つという日本語についても、そんな気がします。

 

私は目が悪く、メガネを必要とします。

眼鏡がないと車の運転が出来なくなるし、日常生活にも支障が出ます。

これも障害として考えると、みんなが何かしら障害を持っていて、障害を持っていない人は障害を持っていないという障害を持ってるのではないでしょうか?

 

バリヤフリー設計とか、ユニバーサルデザインとか、色々と出てきていますが、人間一人一人が外見も能力もバラつくわけだから、大多数に合わせてデザインが組まれている。

少数派のためにフォローするのがバリアフリーであり、少数派のフォローを減らすためにユニバーサルデザインがあるのではないかと思うのです。

 

ままならないことがあるこの世で生きていくためにお互いにフォローしていく。

ままならないことがあっても当たり前であり、それを無理やり克服したり、当てはめようとするには、自分を制限することであり、誰かを排除してしまうことでもあると思います。

それは、誰かを弾糾するのと同じ事のような気がするのです。

 

ままならないことがあったとしても、それに抗うのがいい場合もあれば、悪い場合もある。

環境なら変えてみればいい。

極端に変えるのではなく、自分の気持ちを変えていくことから始めるのもいいと思う。

ランチのメニューをその日決めてたけど、前の日に決めることを続けてみる。

前の日に決めるということは、ランチに間に合うように午前中の仕事をスケジューリングしないといけないかも知れないし、天気も見ておく方がいいかも知れない。

それを二週間続けると、スケジューリングのルールができるかも知れない。

スケジューリングするための情報を知りたくなるかも知れない。

 

自分を少し変えてみて、昨日とちょっと違う自分を気にしてみる。

ままならないことも3回に一回は「仕方ない」と思ってみるとか、「仕方ない」と思っていたことの3回に一回は「いやいや」と反論してみるとか。

 

 

ライフオーガナイザーは、十人十色の片付けがあることを知っています。

それは一人一人の困りごとや環境、条件が異なることを知っているからです。

 

そして、そのことに気づくことで、自分を枠にはめてしまっていたことに気づいたり、相手にも枠があることに気づいたり。

 その気づきがお互いを尊重する気持ちに変わっていく。

 

 

ライフオーガナイザーは片付けは空間だけではなく、感情や環境も整えるお手伝いをしています。

 

 

 

LO的 新しい言葉を一つ覚える

余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

色々と自分のことを考えるときに、その言葉が自ら飛び込んでくることがあります。

その一つがこれ。

 HSPハイリー・センシティブ・パーソン: Highly sensitive person

 

生得的な特性として、高度な感覚処理感受性(あるいは、カール・ユングの造語で言えば生得的感受性)を持つ人のこと。 ... HSPは主に人間を記述するために用いられるが、同様の性質は100種以上の生物にも見られるという。(Wikipediaより)

また、「HSP」だけでなく、「HSS」というものあり。

感受性の強い「HSP」とは違って、刺激を求める「HSS」は協調した言い方をするなら「エキセントリック」であったり、「人目を惹く行動」を取ること

全然違うけど、「HSP」と「HSS」となる。

病気や症状といったことではなく、あくまでも「特性」

例えば、明るい場所が苦手・・・といっても、太陽の光があたるサンルーフは好きだし、大きい音が苦手といっても大好きな音楽なら大音量で聞いても大丈夫。

ただ、自分の特性を知っておけば、ある程度は事故回避できるというものです。

派遣で働いていたときに、環境には敏感でいた方がいいと思っていたこともあって、みんながそうなんだと思っていた。

だから、ちょっとした空気感の違いを感じたら、それに備えることもしていた。(上司のペンを持つ仕草とかで・・・)

でも一緒に働く人たちの中で同じ思いをしている人は少なかった。

ここ数年で、ようやく思いを分かち合える人に出会って、仲良くなりました。

今まで表面上は仲良く出来ていたと思っています。仕事をしているうえでは大きなトラブルも衝突もなかったので。

でもそれだけ。

出来るだけ穏便に過ごしたいし、出来れば争いたくない。

私はそう思っていたけれど、たまにそれが出来なくなる時がある。

その反動の大きさに周囲が驚いて、距離を置く。

結局、楽しかったのは私だけだったんだ・・・と思うとさみしく感じるけれど、それが続けば、私よりも周りが普通で、自分が特殊のように感じてしまう。

「特殊」であることはいいことでもあるし、悪いことでもある。

会社に努めている以上「特殊」が発揮しやすい場所と、それが拒まれる場所がある。私は最初拒まれる場所で仕事をしていることが多かったので、この「特殊」さを見つからないように必死に隠してきました。

隠し方も上手くなったし、会社ではそうしておけばいいと思っていました。

でも、やっぱりそれでは息が詰まってしまう。

いくら社外で息抜きをしても、その環境(「特殊」さを隠す環境)に戻るというストレスはどうしてもぬぐえない。

だったら、「特殊」さが際立たないところに行けばいい。

そう考えて、やったことがない仕事に飛び込みました。

環境のことを考えるととてもよかったのだと今でも思っています。

 

今は自らが仕事先を選ぶことが出来る。

 

仕事を選ぶことが出来るのはとても幸せなことです。

 

人は「選択する」ことで、満足感を得ます。

自分が選ぶという行為はとても大事なことなのです。

子供の時には、正否を判断することは出来ないことも多いでしょう。

そのため、親や先生、周りが口を出すことも多くなります。

それは「選択する」ために必要だと思われる情報が少ないから。

誤った選択をしないために、周りが口を出す。

でも、子供もどんどん吸収する。

自分の経験以外に、友人の経験、ネットの経験談、それを知ることも大事なことだと思います。

全部が全部自分で経験したことでないといけないことはなくて、自分でない人の経験を自分だったらどうするか考えるのも、経験だと思うのです。

 

ライフオーガナイザー的には、相手に「選択する」ことをお願いします。

それは自分の決めたこと、目標に対して、自分が選んだのだと思うことで行動がスムーズになるからです。

ヒトから言われたことよりも、自分が決めたことの方が行動も伴うものです。

 

その「選択する」ために、環境や感情が色々と渦巻く。

「選択」出来ないのではなく、その「選択」が正しいかどうか迷って答えられない時があるかもしれません。

 

私は選択してきたことを否定されたくはない。

だから、友人が決めたこと、夫が決めたこと、家族が決めたこと。

それを尊重して、それに対して何か問題が発生しそうなら、事前にそれを察知したいと思う。

そういう「特性」でありたいと思います。

 

 

 

LO的 人生を軽やかに過ごすために

余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

前の記事は、自分のエゴが爆発した気がして、自己嫌悪しておりますが、これも自分の感情の一つとしてブログを残しておこうと決めました。

そして、何にそれほどまでに感情が昂っていたのかを、改めて分析してみることにしました。

第三者的目線、ライフオーガナイザーでいう「俯瞰」することです。

自分の感情が揺れると、この「俯瞰」機能が働かなくなります。

会社で仕事をしているときは、感情を揺らさないように、出来るだけ感情的に物事を運ばないように気を付けていますが、家に帰ると少しその度合いが下がるのかもしれません。

要は、義理ママに甘えているのかもしれません。

 

家のことはやってくれるだろう。

台所をお願いしているのだから、買うものも把握してるだろう。

ドアや窓はきっちりしめないと虫が入ってくるのに・・・

 

などなど。

 

基本的には、義理ママは「他人」、夫も「他人」であることは同じスタンスなのですが、ここに「好意」が入ってくることで許せることと許せないことが出来て、その範囲が広くなるのか、狭くなるのか・・・ということなのかもしれません。

やはりどこかで、私が義理ママに対してハードルを設けているのかもしれません。

最初から期待しなければいいのですが、それはそれで義理ママに伝わってしまう。

それは義理ママにとって嫌な空気を伝えてしまうことになる。

嫌な空気は良い空気よりも伝わりやすいので・・・

 

9月に入って、仕事もそれなりにこなさなくてはいけないので、家庭との切り替えはとても重要になります。

 

もう少し、義理ママのことを楽しく考えることが出来ないかと模索中です。

あまり楽しく考えると、それは義理ママを軽視してしまっているようにも伝わってしまうだろうし、その辺の塩梅が難しい。

 

でも、出来るだけ軽やかに人生を過ごしたいという目標のためにも、私自身が変わればいい。

相手を変えることは決してできないことではないかもしれないけれど、自分が変わったほうがきっと楽。

 

そう考えるようにすることが、苦痛にならない程度に、自分を変えていこうと思うのでした。

LO的 私だけでしょうか?

余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

心が狭いと思われるかもしれませんが・・・

義理ママの感覚がどうしても納得できない。

というのも、息子である夫に対して、当たり前のように思っている節がある。

同じ子供でも、娘にはそんなこと決してしないのになぁ・・・と。

 

一番驚いたのは、賞味期限切れのおかずを平気で食卓に出して、夫には勧める。

娘には進めないのに・・・

もったいない精神はわかる。

だったら、自分だけ食べていただきたい。

一家の大黒柱(発想が昭和・・・)の夫に対し、食中毒でも発症してほしいのか?

既に認知症が進んでいるらしく、臭覚が鈍ってきているため、においで判断するのはやめてほしいと思うけれど、それを指摘すると拗ねてしまう・・・

義理ママ以外は働いているので、出来れば賞味期限など気にせずにおいしく食事をしたいというのが本音だ。

台所をお任せしているという建前上、あまり口を出さずにいたが、この頃は少しずつ取って代わらなくてはいけないのだと思うようになりました。

台所ってすぐに汚れが目立つから、毎回の癖付けが大切。

実家は使った後、すぐに洗って、コンロも拭いておくので案外綺麗。

これは、実家のときに祖母も同じだったから。

義理ママは鍋はすべて使いっぱなし。だから数多くの鍋が存在したのだと、今なら納得できる。

IHにしたことで、アルミ鍋が使えなくなり、数をそろえることが出来なくなったこと、アルミ鍋よりも重くなり、自分の思うように鍋が振れなくなったこと。

色々と制約をつけてしまったことで、義理ママが台所をそれほど好きでなくなったのかもしれない。

ただ思うのは、義理ママの姿を見て育った子供は同じことをするものだ。

夫も最初は同じようなものだったけれど、今では片づけもするし、段取りも出来る。

それは誰かと一緒に台所に立つからかもしれないし、家を新築した時に癖付けたからかもしれない。

でも、娘はそうはいかない。

たまに自分の食べたいものを作って、洗い物はほったらかし。

義理ママも洗わずほったらかし。

 

あきれたけれど、三つ子の魂百まで。

義理ママの兄弟も同じだったので(家族葬の時に分かった・・・)、仕方がない。

そう、これは仕方がないことだ。

 

でも、それと賞味期限きれを食べさせるのは違う。

もったいないから、子供に賞味期限を食べさせる親がいるのか?

ココにいる・・・・

 

私は夫にそんなものを食べてほしくないので、事前に申し訳ないが捨てるようにしている。

ただし、この買い物はすべて私の財布から出ているため、毎回「もったいない・・・」そう思うのは許してほしいと思う。

 

この頃は、冷蔵庫の中をメモして、買い物をする義理ママの後ろから、「ほうれん草は1つあります」とか「ブロッコリーはあります」「キュウリはもらったのものが4本あります」など、囁いている。

それがどうした・・・とカゴに入れるときもあるけれど、出来るだけ「それを何に使いますか?」と聞いて、戻してもらうようにしている。

この頃は、私がメモを取り出すのが分かると、義理ママは少しおどおどしてしまうようにも見える。

申し訳ないと思う反面、自分の食べたいものを買うのはいい。

でも、使わない野菜を台所で調理していたころのように買うのはやめてほしい。

今では台所で作るのは「インスタントラーメン」「レトルトカレー」なのだから。

 

暑さで食べたくないよりは食べてもらった方がいい。

熱中症にもなってほしくないので、出来るだけ自由にしてもらっていい。

 

だから、自分のことだけを考えてほしいと思ってしまうのは、わがままだろうか?

変に「母親だから子供のために野菜を買わないと」そう思ってもらうことが困ることになってしまうなんて、正直辛いことなのです。

 

納得できないけれど、義理ママにそれを伝えても響かない。

それはきっと、私ではない他の人だから。

ライフオーガナイザーの「みんな違ってみんないい」の精神で、もう少し優しくしたいといつも後で思う。

 

LO的 感情を受け止める

余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。



片付けのお手伝いをさせてもらっている方と感情の行き違いがありました。

その時に気付いたのですが、私は随分と自分勝手に生きてきたなぁと。

誰かのために生きるなんてことを考えないままに、年齢を重ねた気がします。

だから、相手の言うことを真に受けて受け止めてしまったり、全部を嘘だと思ってしまったり。

両極端な感情でしかない。

今回は、私と同じような感情を持つ人と感情の行き違いがあったことで、改めて自分の感情の持ち方を考えました。

そして、少しも成長していなくて、相手を傷つけてしまっていることを知り、今は友人と話すことが怖いです。

これがクライアントだったり、仕事関係者だったりすると問題ないのですが、友人という位置付けになると、途端に怖くなるのです。



心の免疫力

自分の感情にも応急手当が必要なのでしょう。

自己肯定感が低くなると、免疫力も下がります

心のバリアが薄くなるから、心が傷つきやすくなる

褒められても、そんな訳ないと素直に受け止められない

自分がをネガティブに受け止めるから、雑に扱われても我慢してしまう



私はこの時々顔を出すネガティブな感情に対して、なぜその思いになったのかを考えてしまいます。

そして、昔のトラウマに戻ります。

どうやっても、そのトラウマを乗り越えた感がないので今回もダメだったんだと思い、落ち込むのです。

ただ、それは私の内面でしかないので、表面は何事もなく過ぎていきます。

誰かに「もういいよ」と言ってもらいたいだけなんじゃないかと今度は自分自身のネガティブな感情でさえ疑ってしまいます。

以前はそれで気分も落ち込んでましたが、今はその感情まで行き着くと体調に出るようになりました。

そうすると、体に出てくるためか、逆に体調管理につながって、感情とは切り離して体調を戻そうとするために、いつの間にか感情がアップしていることに気づきます。

ただし、これは鬱にならないための自己防衛反応だと思えるのです。

ということはその自己防衛反応が出なくなると、一気にテンションが下がってしまい、上げることができなくなるかもしれない。



更年期障害では自律神経の不調があると言われています。

普段のテンションでも自律神経の乱れで、揺れると聞いているので、とても不安になります。



症状は人それぞれと聞いているので、自分がどうなるといいのかをイメージして、具体的に動けるようにイメトレしておきたいものです。