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まるくくらす

日々の暮らしを少しでも気分良く過ごすために考えていることとか・・・

LO(ライフオーガナイザー)的 エンディングというセレモニー

「死ぬ」ことは、自分で何も出来なくなるコトだと実感した日・・・

祖母が亡くなった時に、色々と残してくれたものがありました。
今考えると、用意のいい祖母だったと思っています。
もう10年以上前の話なので、「エンディングノート」なんてモノはまだ存在していなかったし、「遺言」も一般的に作るものでもなかったと思うのです。
そんな中で、祖母は孫である私にも残してくれたものがあります。
生前にもらったモノも多く、「生きているうちに自分の手で渡したい」と言って、自分で身動き出来るうちに何でもしてしまう人でした。

気が早かったなぁと思うのは、成人式の着物をすでに私が15歳のときに作っていたと言うところでしょうか?
そんな祖母の残したモノを思い出して、私は自分自身が残すためではなく、自分で出来ない事を頼んでおこうと思いました。

祖母の残したモノに、法的効力はありません。
でも、父も母も希望をかなえるべく動いてくれました。
父は一人っ子だから、兄弟や親せきの反対を受けることもなかったし、周囲も受け入れてくれました。
その頃は、まだ「自宅で見送る」というのが主流であったけれど、葬儀場でのお見送りとなりました。
そのことを決して後悔していません。
むしろ、自分たちが疲れてしまう事を祖母は嫌がったと思うと、葬儀場での葬儀はお葬式に集中出来るので、返って良かったのかもしれません。

私自身がエンディングを迎える時、どうして欲しいかとこのときに考えたのが初めてだったのかもしれません。
それまでは「死ぬ」ことは分かっていても、自分が死ぬことで色々と手続きが居ることを考えていませんでした。
私は「死ぬ」ことで手続き出来なくなることを、誰かにお願いしなくてはいけない。
結婚して、子供が居れば、子供に託すということも選択肢の一つであり、今までは当たり前のことだったのかもしれません。
ただ、私は結婚しているけれど、子供はいないので、子供に託すことは出来ないのです。
ダンナさんに託すことは出来るけれど、ダンナさんが先にいってしまうかもしれない。
その場合、私は何かを頼らなくてはいけない。
その時のために・・・
随分と遠い先の事を心配していると思われるかもしれませんが、コレばかりは予測不可能です。
明日かもしれない、1時間後かもしれない。
不安になっているではなくて、そうなったらちゃんとしておかないとダメだなぁって思うだけなのです。

エンディングセミナーはそういう意味において、ほんの少しの安心感があります。
「死ぬ」わけではない場合は、出来るだけ自分が出来るようにしておきたいし、「死んだ」後は、誰かにお願いしなければいけない事をまとめておこう。

それが、私のエンディングセレモニーの考え方なのかもしれません。