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まるくくらす

日々の暮らしを少しでも気分良く過ごすために考えていることとか・・・

LO的 閑話休題

ライフオーガナイザー Kuraです。

先日、実家に帰った時期がありました。1週間ほどでしたが、実家では毎日朝夕とお勤めをします。(浄土真宗 お経をあげることです)

その時に、意味が分かる訳ではないのですが、唱えることで少しだけ安堵するというのでしょうか?実家から戻って今は唱えてもあの時のように安堵しないのですが・・・

 

ところで、仏教でいう「空」と言うのはとても難しいモノです。

これが分かれば悟ったとも言えるのではないかと思うのです。

「空」とはカラッポと言う意味でも使います。実体がないと言う意味です。また、天空と言う意味でも使いますが、実体はないけれど、実在する。見える。これがこの実体のないものを見せている。

見えると脳が補正するということもあるし、本当に空はあるのだから補正するのとは少し違うとも思うのです。

 

脳が補正する・・というと、思い出すのが個人で同じ景色を見ても、他の人と同じ景色を見ているとは限らない・・・という言葉です。

これは、感情の違いと同じで、視覚も脳が見せるものだからです。

共感したい、共感して欲しい、共感しあっていると願う。

一緒に体感したメンバーは連帯感を持つ。だからこそ、子供の時に親だけでなく友達や他の大人とも共感する体験をした方がいいと思う。

気に入った人とだけでない共感性。

これを学ぶために学校があるのではないかと思います。だから、「同じでなくていい」と先生が言う事で、子供たちは皆ちがうんだなと感じてくれるのではないかと。

色々な人と大きな場所で触れあうことなんて、学校くらいしかなくて、大人になれば会社しかないし、他の場所での体験はお金を払わないと出来ないコトなのですから。

大人になれば、自分自身で生活を営みます。

ある程度の融通もきくし、自らが出ていくことで触れあう場を探すことが出来ます。

脳に情報を与えるためにもいい。

ただ、体験したことと知識として知ったことは違います。

自分自身が知ること、自分自身が感じることを引き出しに多く持つことで、相手の事を知ることも出来るし、相手の感情を知ることが出来ると思うのです。

 

仏教の教えとは異なるかもしれませんが、「空」とは何もなくてカラッポなモノかもしれませんが、それは無限で、ソコには一杯自分の気持ちを入れることが出来る場所なんだと思うのです。