LO的 同居とは精神修行の場でもある
同居するということは、自分以外の誰かが増えるということです。
ライフオーガナイザー Kuraです。
生まれてからずっと一緒にいた親は、元々他人であり、祖母もまた、母とは他人でした。
だから、「私」が両親を結び付け、祖母と母親を結び付ける役割を担っていました。
私はそう思っていました。
となると、自分が結婚して、相手の家族と同居した時には、この「自分」の様な結びつけをする相手がいません。
だから、今でも、私は義理ママとは、他人だという思いを持っています。
それが悪いわけではないと思います。
それは、「他人」だからこそ、お互いにドコかで遠慮しているということです。
遠慮するということは、相手の事を考えることにもなります。
自分のラインを決めることにもなります。
互いに踏み込まないラインを作るのも、同居するうえでは大切なことだと思うからです。
むやみに争いに発展させたくはないし、お互いに嫌な思いを持ち続けるのもキツイものです。
その点「他人」と同居していると思うからこそ、「遠慮」ラインがあります。
それが、お互いにいい空気となればいいのです。
何でもオープンに・・・とか、家族だと思って・・・とか、いきなりそれを言われてもお互いにそれは無理だし、これからも無理な話だと思います。
「家族」という枠ではなく、「同居」するという枠で考えるだけでいいので、私にはこちらの方が楽なのかもしれません。
でも、義理ママは義理ママ。
義理でも母親なのです。
そこは「他人」といえども、夫の母親であることを常に忘れてはいけないと思っています。
義理ママのイライラの温度を知るのも、同居のラインの一つでもあります。
表情から体調を読む
動作から感情を読む
気に掛けるトコロは気に掛ける
スルーしていいところはスルーする
この塩梅はとても難しいのですが、それでの他人と同居するに当たって、お互いに嫌な思いをしながら同居するよりも、それなりに気持ちよく同居したいと思うのであれば、どこかしらで妥協は必要だし、その妥協は必要不可欠だと思います。
「ココがいや」
「これがダメ」
ではなくて。
「これはOK」
「まぁ、ここまでなら」
これくらいの気持ちで同居を受け止めることが、自分にも相手にもギリギリのトコロまで我慢したりさせられたりすることはないでしょう。
「まぁ、仕方ない」
そう思った方が勝ちだとなぜか勝ち負けで思ってしまいますが、それでもいいので、「まぁいいか」を気持ちの中に必ず持つことが、同居を少しでも気持ちよくするコツではないかと思います。
とはいえ、たまには腹も立つし、多分相手もイライラすることでしょう。
そういうときは、相手のイライラに合わせず、自分のイライラだけを取り除くように心がけます。
相手のイライラに感化されてしまわないように、自分のラインをもう一度見て、自分の中のイライラだけを解消する。
それだけでいいと思います。
相手のイライラを解消するのは、相手本人であり、自分には関係がない。
それくらい割り切って、生活することが、精神上いいのではないかと思います。