LO的 エンディングを考える
「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」
ライフオーガナイザー Kuraです。
自分を終うための作業。
人生という祭りの後の整え作業。
以前にテレビで便利屋にフォーカスした番組を見ていて思ったのは、
高齢者の不安をあおる番組構成だったということ。
「一人暮らしの高齢者の孤独」と「離れて暮らす家族の罪悪感」を植え付けようとしているように感じました。
高齢者の病死、自然死が多くなったのは、長生きをして、健康な高齢者が増えているということでもあります。
もともと高齢者の人口は右肩上がりの今だからこその問題ともいえるでしょう。
それに個人の生活を尊重し、高齢者自身も自分の生活を崩したくないわけですから、お互いに距離をとってきたわけです。
だから、当たり前といえば当たり前のことだし、少しずつ増えている個人葬にも反映されています。
そんな中、以前に学んだ「エンディングノート」をもう一度振り返りました。
その時は、エンディングノートとは残された人への思いよりも、自分の思いをつづるノートだと思って学びました。
でも、今は手を煩わせたくない、という優しさの反面、自分のことだから、自分の思い通りにさせてほしいというエゴにも見えてしまいます。
子供のいない私は、高齢者になった時に、一人でいることも十分に想定できる。
火葬代を先に払うので、葬儀代行を頼みたい。
骨も墓も不要だし、残った親族の手も煩わせたくない。
税金を納めている市町村で、事務的に死亡処理を行ってほしいと思うのもエゴなのかもしれません。
自分が死んだ後のことを、子供や孫に任せるのが、現在までの一般的な流れです。
でも、私は子供を持たない選択をしました。
その時点で、今までの一般的な流れは望めないかもしれない。
だからこそ、自分の死後に誰かの迷惑になるのは嫌だと思ったのです。
そのために、第三者にゆだねられるように整えておこう。
それがエンディングノートの学びへの参加したきっかけだったことを、再確認できました。
冒頭の番組では、親族に頼まれて片づけをし、出てきた貴金属類は親族に手渡されました。
出てきた財産は親族でなければ受け取れないから、依頼は誰がしてもいいけれど、最終的に「親族」でないといけないことがたくさんあるのが現実です。
だから、高齢者が亡くなった後の空き家が増えていても、親族がアクションを起こさない限り、第三者が動くことはできないし、市町村なども動くことができない。
そう考えると、自治体が新しく高齢者の居住を拒む理由もわからなくはないのです。
私は日本国籍である以上、死ぬことで戸籍が失われるのであれば、その時には事務的に国や市町村にかかわってほしいと思います。
自分がこの世から消えた後、思い出してくれる相手がいるのはうれしい。
でも、思い出してもらうだけでいい。
どうせ、全員にお別れをいうことなんて、出来ないのだから・・・
エンディングノートは残った人への意思表示ではなく、後始末をお願いするための何かでありたい。
ライフオーガナイザーは自分の仕組みを作ります。
空間、情報、時間。
そこに私は人生最後の仕組みも入れたい。
家族にしかできないこと。
家族にしてほしいこと。
行政が関与していいこと。
行政しかできないこと。
明確にすることで、家族任せの作業を福祉の一つとして進めることができると思います。
もちろん、有料だと思ってますけど・・・
本音は「安心して死にたい」。
生きているときから、死んだ後のことまで心配して生きたくない。
そして、死んだ人の面倒を一切合切押し付けあわない社会であってほしい。
なくなった人の思い出と生きる人たちが、その人の思い出を良い意味で懐かしむことができるようになりますように。