LO的 人生は長いから・・・
「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」
ライフオーガナイザー Kuraです。
前回、エンディングを考えるという記事を書きました。
私個人の最後を考えましたが、今回は私の家族観について考えてみました。
結婚して15年が経ちました。
その間、子供が出来ないまま。
今はもう、子供を持つことを話題にしていません。
「出来たらいいね」と言っていたけれど、最終的にそのための原因追及や治療といったことはしませんでした。
夫は子供が欲しかったと思います。それは聞いているので・・・
ただ、そのために出来ない原因を病院に行って究明しようという動きには一度もなりませんでした。
夫からも、そして私からも。
私は原因を究明するのが怖かったし、夫もそこまでして欲しいかといえば・・・ということだったのかもしれません。
幸いにも、義理ママからの厳しい追及もありませんでしたから・・・
(夫側の親族からは厳しいお言葉が飛んでいたのは空気で分かったけれど、夫から私へ伝わったことはないので、止めていてくれたのだと感謝しています)
子供が欲しいと思ったことがあったのかと自問しましたが、私自身はそこまでの気持ちにはなれていなかった。
だから、不妊治療を考えることもなく、この年齢まで来たわけで。
今年が4度目の年女。
そろそろ「更年期」という二度目の思春期を迎えるにあたり、今、少しだけ思い返しています。
「子供が欲しかった?」
姪っ子や甥っ子はとてもかわいかった。
友達の子供もとてもかわいかった。
でも・・・
「産みたい」という情熱は不足していた気がします。
子供が怖いとか、子供が苦手とかそんなんじゃなくて、自分が親になるという認識がどうしても足りなかった。
怖かったのかもしれません。
子供は自分の分身ではないことは、私自身が子供としてそう思ってきたので、わすれることはないけれど、どうしても「子供」は「親の評価物」のような気がしてしまっているのでしょう。
私が悪いことをすれば、私自身も悪いけれど「親の教育が悪い」といつまでも言われる。
田舎で育った私はそれがとても怖かった。
成人しても、子供が出来ても、子供である私のことで親が悪く言われる。
それがどうしてもいやだった。
だから自分が親になった時に、子供のことで自分が評価されてしまうのが嫌だったのかもしれません。
私は私。
それはそうなんだけど、それだけでは済まされない。
他人の目を気にしなくていいのに、気になってしまう。
そして、自分以外のことで自分が評価されてしまうことへの嫌悪感。
私は自分勝手なんだと思います。
ライフオーガナイザーは「人それぞれ」という考え方があります。
自分はそう思っているし、そう思いたい。
簡単に「生みたくなかった」と言えればよかった。
でも、「生みたくない理由は?」と尋ねられた時に、答えられないことが何だか悪いことをしているような気になってしまう。
不妊治療にも一生懸命向き合うことなく、ただただ「できればいいね」で過ごしてきた結婚生活。
夫との生活はまだまだ続きます。
結婚当初とは変わった生活リズム。
そして、今後も変わっていくであろう生活リズム。
いずれにしろ、夫と暮らしていくというスタンスは変わらない。
だからこそ、夫とは程よい距離で暮らしたいと思っています。
付かず離れず。
いい距離間で生活できるように、今からはそちらに留意していくことにします。
「子供」がいればもっとにぎやかだったかもしれないと思いつつも、今の生活は嫌いではない。
自分と夫を中心に考えていく生活は決して寂しいものではない。
私たちは嫌でも年齢を重ねていく。
その時に隣にいる人は誰かを考えると、相手とのことを大切に思うことで暮らしは健やかに回るのではないかと考えています。
「生涯現役」でありたいと思うので、健康を重視していきたい。
「健康」であるためには、体調の変化、環境の変化、内面の変化、それぞれをないがしろにすることなく、一つ一つ丁寧に受け止めたい。
まだまだ人生は続く。
そう考えると、ついつい後回しにすることが出てきてしまうけれど、後々のことを考えて、後回しにしていいかも考えていくことが大切なことだと思います。