LO的 変化する環境について
ライフオーガナイザーのKuraです。
同居歴15年になり、一緒に暮らし始めたころとは何が違ってきたのだろうと考えることがあります。
何一つ変わっていない気がしますが、確実に年齢だけは重ねています。
それをすっかり忘れていました。
自分はもう50代を目の前にしていると実感しているのに、義理ママのことは同居時のまま止まっている気がしました。
少しずつ出来なくなっていることは、このブログでも何度か書いていますが、同居を始めた頃はまだまだ若いと思っていたけれど、今はもう喜寿を過ぎているわけです。
毎週買い物に一緒に行っていますが、この15年で車を3回買い換えました。
毎回その車に乗って買い物に行きます・・・が、今回買い換えた車は全く覚えられていないのです。
特徴はあります。
色も、白や黒ではありません。
それなのに、この間は全く違う車に乗り込もうとしていました。
色も車種も違うし、いつも乗る場所と違うドアを開けていました。
乗っていた人は驚いていました。
だよね・・・
私も驚いた。もちろん夫も。
まさかの車間違い。
年齢を重ねるということは、色々と不備が出てくると頭ではわかっていたものの、こうやって目の当たりにすると、私も内心で衝撃が起きます。
ただ、義理ママはあまり衝撃的ではなさそうで、このギャップがなんだかモヤモヤする原因になっていくし、塵積って山となるのかもしれません。
義理ママの歩く後ろ姿を見つめながら、歩くスピードが遅くなったなぁとか、足の引きずりが大きくなってきたなぁとか、きょろきょろしてるけど、見えてるかなあとか、色々と考えます。
ただ、義理ママに聞いても、思った回答が返ってこないので、想像しか出来ません。
例えば、今の車の色は何色に見えるんだろう・・・とか。
今聞こえている音はどのくらいの大きさで聞こえてるんだろう・・・とか。
気配で分かるのではなく、きっちりとみているようで見てないのが高齢者。
ADHDとは異なるけれど、同じように視線を送っても情報として入ってこない。
ADHDを学んで、これが高齢者に認知にも同じことが言えるのではないかと思っています。
ADHDと認知症がイコールではないけれど、ADHDの症状のいくつかと認知症の症状のいくつかは交わる円の中に入っているような気がします。
もっと前に義理ママと話をすればよかったなぁと思うことがあります。
ただ、自分の母親とは違う。
理解しようにも、理解できないだろう。
そんな風に思ってしまっていた自分を少しだけ残念に思っています。
私はもともと他人との距離感を図るのが苦手なタイプです。
急には友人を作れない。
自分の親とだっていまだに理解しあえているとは思えないけれど、理解し合わなくてもいい、優しくしたいと思う気持ちがお互いにあるので、フォローし合えます。
でも義理ママとの距離感は実の親とは異なるし、仕事仲間という位置づけとも違う。
私の中で新しいカテゴリの人。
だからこそ、ラインを見極めることが出来なくて、今に至っているのかもしれません。
義理ママにもそんな私の空気が伝わっていることは分かっています。
でも、どう接すればいいのかわからない・・・のが本音でもあります。
娘のように接するのは考えていませんが、義理ママの思う嫁のようにも接することは出来ていません。
だからといって、ご近所様ほどの遠い距離感まで行くわけでもない。
「赤の他人」と同居する。
義理ママとしても、私と同居するということはこういうことだったと思います。
最初は義理ママの方が気を使ってくれていたと思うと、今は私が気を遣うターンなのかしれない。
ただ、白々しさの滲まない、気の使い方が重要になってきます。
だからこそ、できるだけその変化に気付くこと。
オニ嫁として出来ることなんだと思っています。