LO的 「生きよう」という気持ちは病院へ行く回数で分かる
病気とは無縁の生活を送る私。
ここで言う「病気」とは、手術が必要、入院を余儀なくされるということですが・・・
頭痛や発熱といった風邪などはあるものの、インフルエンザにもかかったことがない。
そのせいか、鎮痛剤、抗生物質のお世話になることはあっても、病院に入院するなんてことは全くありません。なので、病院に行くのは、健康診断くらい。
私の父親も、これまで大きな病気はしたことがなかったのですが、今回ガンになり、検査入院や手術、退院後の通院と明らかに病院へ行く回数が増えたのを目の当たりにして、やっぱり「生きよう」と思う気持ちは病院に行く回数で分かるなぁと思ったのです。
もっと言えば「死なない努力」ではなく、「生きるための努力」と言えばいいのでしょうか。
生きていることはとてもありがたいし、感謝すべきことです。
寿命をまっとうしようと思う気もあります。
ただし、長く生きるという抗いはしたくない。
「いつ死んでもいい」という投げやりな気持ちでもありません。
「死ぬのは仕方ないな」と思えるくらいなのです。
そして、投げやりに生きないために「生きるためのライン」があれば「もう少し生きよう」と思えるのかもしれません。
そして、病気や事故、天災、逃げたくても逃げられない事が起こります。
だから、今生きているなら、無駄に死に近づく必要はなくて、迎えに来た時に抗うのを辞めようと決めました。
「死んでもいい」と思って生きていません。
「死ぬのは仕方がない」と思っているだけです。
自分の生命力を否定するわけではありませんが、やはり意思と係わっていて、魅力的な人は「生命力」が輝いている気がします。
もちろん、「生きる」という努力が見えるからこそ、ソコに惹かれるんだと思います。
これまで「生きる」努力をしてこなかった私ですが、せめて自分の痕跡を全て消していなくなりたいと思うようになりました。
そして、生きている事を喜ぶ何かを見つけようと思いました。
ライフオーガナイザーになったきっかけ。
それは、自分が「生きる」努力をした結果なのかもしれません。
LO的 同居について考える4
結婚してから、同居せずとも、「介護」はずっと頭の中にあります。
だからこそ、自分は楽したいと思うし、義母が何かを続けることで生活サイクルが回るのであれば、お互いに大事なことだと思うのです。
ただ、ずっとずっととそのサイクルを続けることは出来ないので、その時々で見直して、少しずつシフトダウンさせていくことも必要なことです。
「親」はとても心強い相手であり、厄介な相手でもあります。
厄介というのは悪くとらえがちですが、そう思う、思われる関係に陥ってしまうと、同居はとても悲しく辛いものになります。
ある程度の関心と、ある程度の無関心。
私は、義母がどこまでするのかを想定しますが、思ったところまで出来てなかった場合でも、自分の想定が甘かったと思うだけにしています。
「してもらえなかった」ではなく、「想定外だった」と思えば、それ以上は自分のルールで出来るので、ストレスが軽くなります。
ただし、出来るトコロまでは取り上げたくないのです。
これが、私からみた義母との関係です。
孫がいないこともあって、私と義母はこの立ち位置でこの関係でいられるのかもしれません。
人それぞれ、相手あっての関係なのです。
正しいとかそういうことではなく、自分のルールを作っておけばいいのです。
相手のことは自分ではないのだから。
「私の中のこと」としておさめておけることが大切です。
どうしても無理なら、周囲に発信することです。
周囲というのは、家族であり、支援自治体のコトです。
介護に正解はありません。
子育てと同じです。
自分が苦しむ必要はなくて、一人じゃない事を忘れないで欲しいと思います。
介護、同居。
これは高齢者と向き合う時、切り離すことの出来ない問題です。
ただ、ムリなことは必ずあると思うので、自分たちがラインを決めて、相手を接することです。
ラインはその時々で揺れてしまうかもしれません。
でも、それも一つのルールとしてしまえばいい。
言ったもん勝ちではなく、自分の気持ちと自分の出来ることを分かっていれば、相手の言い分にも折り合いをつけることが出来ます。
だから、全てを背負う義務も義理もありません。
はっきりいえば、そう言うことなのです。
自分を殺して介護することで、自分が満足するなら構いません。
でも、そのことで周囲や相手を恨むようなら、その介護は止めた方がいいと思います。
自分の出来る範囲と相手が求める範囲が異なるとき。
ソコをどう埋めるか、悩んだら、決して一人で悩まずに、相談しましょう。
声を上げましょう。
私は同居していますが、義母が自分で生活出来ない場合、施設に入れることも夫と相談しています。
同居=介護ではないのです。
LO的 同居について考える3
夫との連携プレーが出来てくると、二人で義母にしてもらいたいことをしてもらえるように考えることが出来ます。
ポイントは、義母が自分でやっているという「満足感」です。
同居していると、買い物なんかも同じお財布からになることもあるかと思います。自分の買いたいものは自分のお財布で買ってもらいますが、食事の用意なども考えると買い物は一緒に行くことも多くなります。
まずは、買い物に行く時は、必ず義母にカートを押してもらいます。
欲しいものをカートの中に入れてもらいます。
長時間の自立歩行が難しい場合は、カートなどがあると押して歩けるので安心です。
買い物に行くという事は、身体的にも感情的にもアクションを起こすのでとてもいい刺激になります。
この時、「必要なモノを買ってください」とお願いします。
これは、「家族に必要なのか?」「自分に必要なのか?」を考えてもらうためです。
毎回、買い物に行った時の義母にはこのミッションをお願いしています。
そして、私のミッションは義母を見守ることです。
子供がカートを押すのと同じくらい、高齢者がカートを押すのは危険な時があります。「周囲が見えない」「欲しいものを見つけるとカートをふり廻す」「カートを置き去りにする」など、高齢者カートあるあるです。
見守ることで、いつもにない行動を起こしたりすると、少しずつ認識できる範囲が狭くなったり、記憶の繋がりが依然と変わっていることにも気づけるので、認知症や脳の病気を疑うきっかけにもなります。
そして、毎回同じスーパーには行きません。
同じトコロの方が安心するでしょうが、ルーティン化してしまうので、ランダムで近くのスーパーをチョイスします。
ただ、広さによっては体の疲労が出てしまうので、買い物から帰って来てからはゆっくりしてもらい、私たちが冷蔵庫へモノを入れたりすることにしています。
買い物の内容をみて、違和感を感じることとしては、同じお惣菜をずっと買っていたのに買わなかったとか、急によく似たものを買うなどはちょっと気にしておきたいものです。
たとえば、ポテトサラダをずっと買っていたのに買わなかったり、急にポテトサラダではなくマカロニサラダを買ったりした場合、その後の動作を確認して、それが、ちょっとした間違いではないかどうかを判断します。
家に帰って、マカロニサラダに手を付けない理由が「間違ったから」の場合、視力低下も疑うべきかと。
間違う行動が多くなったら、認知症とは行かずとも、今の義母のラインが分かるので、次の買い物の時には声を掛けることも出来ます。
同居したての時よりも、全然行動範囲が狭くなっているし、出来ることも少なくなっていますが、まだまだ、動けると判断して、私は義母に台所をお任せしています。
「出来ることを出来るだけ」
これで上手く回れば、結果オーライなのです。
また、必要なモノだけを買う。
節約術としては当たり前のことです。
ライフオーガナイザーとしても、ルールの一つに加えたい一つです。
でも、義母にはそれが通用しません。
安いと買っておかなければいけないと思ってしまうようです。
義母が一人で自由に買い物に行けない事もあるからかもしれません。
キャベツが4つ、冷蔵庫にあるのには驚きました。
それ以降は、冷蔵庫の中も一応確認して、安いからと言って買わないように一言言うようにしています。
それでもフォローしきれなくなったら、義母には台所を任せずに、主婦業から手を引いてもらおうと思っています。
何もさせないというのは最終手段であり、義母が自分で動ける今は、主婦業を少しでもしてもらえるようが絶対にいいと思っています。
出来る範囲が家の中だけでもいいのです。
私が外に出て働いても、義母が家にいるということが安心材料になるのです。
LO的 同居について考える2
同居している義母は、少しだけ体が不自由です。
後期高齢者であることも考えると健康的だとは思いますが、それでも体力も減ってきているので、無理はさせられません。
家事も色々と年々難しくなってきているのでしょう。
でも、出来ないからといって取り上げてしまうことは、私の首も締めることになるので、出来るだけの範囲の中でやってもらっています。
「出来ることを出来るだけする」これが私のスタンスなので。
子供と違って、自分は出来ると思う事もあるかもしれませんが、実際は後で私や夫がフォローすることも多くなりました。
見えないように隠したり、わざと見えるようにしておいて行動を促したり、「フォロー」と言うよりは「暗躍」なのかもしれません(笑)
これには、夫とのチームプレーが大切です。
夫と私は、将来までお互いに一緒に居る時間が長い相手だと認識しています。
だからこそ、相手と気づまりする関係にはなりたくはない。
なので、夫であれば「私」と「義母」の天秤は「私」の方に少しだけ重みを掛けてもらう。
私は「夫」と「自分の親」の天秤は「夫」の方に少しだけ重みを掛ける。
だからこそ、お互いが嫌がることはしないでおこうと思うと、自分の親には少しだけ言いたいことを言えるのです。
「大事」「大切」この感情はあってしかるべきですが、「大事は相手は誰なのか?」「大切なことはなんなのか?」を見誤ると、後々自分たちが苦しくなるし、家族がギスギスしてしまうものです。
だから「見誤らない」ことが大切なのです。
見誤らないからこそ、適切な処理が出来るのかもしれません。
義母との同居は一時的なモノです。
まぁ、その一時的が10年なんか20年なのかは分かりませんが。
それ以上に夫との同居は続くと思うと、夫を大切に思い、夫が嫌がらない程度に自分のわがままも聞いてもらう。
これが同居時の、夫婦のコツなんじゃないかと思うのです。
LO的 同居について考える1
同居するには、体力が必要です。
結婚して、10年以上が経ちました。
同居歴も同じくらいになります。
実家で3世代同居を経験したので、出来れば同居は避けたいと思っていましたが、そうともいかないので、今は同居しています。
ただ「NG」の条件を聞いてくれる夫だったから決断出来たのかもしれません。
結婚相手の両親は、義父が寝たきりの入院状態、義母は持病持ちの半身不自由でした。古い家に住んでいて、まずは家を建て直さない限りは同居は無理だと訴えました。
もちろん、すぐに家を建てることなんて考えていませんから、二年ほどは別居で生活しました。
まず、同居を望む人が増えているのか?
単純ですが、二世帯住宅や2.5世帯住宅など、住宅メーカーが提案するのは、近距離感の同居です。
お互いの時間、スペースを乱さずに、たまに一緒に楽しみたい。
お互いにその気持ちになるのは、多分、60歳以下の方になるのかもしれません。
核家族だった自分たちが、いきなり他の家族と一緒に住めるなんて思いもしないだろうし、不自由極まりないと思います。
ただ、後期高齢者の年代は違います。
不自由さよりも、同居が当たり前だという気持ちが大きいということです。そして、それは相手も同じだと思ってしまう事です。
そして、これだけ情報があふれている中でも、決してブレることがありません。
自分の中にポリシーがあると言えばとても格好いいのですが、フレキシブルには対応出来ないということなのです。
そして、フレキシブルに対応しなくてもこれまで何の支障もなかったし、あったとしても感じなかったという環境でいられたからです。
出来れば、そのまま往生していただきたいと今は願っています。
今更、今はこんな風潮ですよと言ったところで、相手がそれを理解するとも思えないし、理解したところで、自分がどうすればいいか迷ってしまって、不安にさせることはしたくない。
ただ、同居の意味合いが確実に変わってきたことだけは、知っておいてほしい。
前は家で看取ることも考えて、同居はとてもいいシステムだったと思います。今は看取るための同居ではなく、健康な間だけの同居という事になるのかもしれません。
義母は歩くことも出来るし、一人でご飯を作って食べることも出来ます。
それに甘えて、私は働きに出ることが出来ます。
フルタイムで残業も出来ますと言えるのです。
これはありがたいことでもあります。
少しでも、義母に不安があったら、私はフルタイム、残業可能な仕事をすることが出来ないからです。
そして、仕事が数多い中で、選択肢が多いのもこの条件なのです。
少しでも、NG条件があると、仕事の選択肢が減ってしまいます。
出来れば、仕事の内容も選びたい私としては、今の状況はとてもありがたい状況でもあります。
日常生活に何の支障もない義母が居てくれることで、家事をお任せ出来るからです。
だから、同居するには、体力が必要です。と言えるのかもしれません。