LO的 同居について考える4
結婚してから、同居せずとも、「介護」はずっと頭の中にあります。
だからこそ、自分は楽したいと思うし、義母が何かを続けることで生活サイクルが回るのであれば、お互いに大事なことだと思うのです。
ただ、ずっとずっととそのサイクルを続けることは出来ないので、その時々で見直して、少しずつシフトダウンさせていくことも必要なことです。
「親」はとても心強い相手であり、厄介な相手でもあります。
厄介というのは悪くとらえがちですが、そう思う、思われる関係に陥ってしまうと、同居はとても悲しく辛いものになります。
ある程度の関心と、ある程度の無関心。
私は、義母がどこまでするのかを想定しますが、思ったところまで出来てなかった場合でも、自分の想定が甘かったと思うだけにしています。
「してもらえなかった」ではなく、「想定外だった」と思えば、それ以上は自分のルールで出来るので、ストレスが軽くなります。
ただし、出来るトコロまでは取り上げたくないのです。
これが、私からみた義母との関係です。
孫がいないこともあって、私と義母はこの立ち位置でこの関係でいられるのかもしれません。
人それぞれ、相手あっての関係なのです。
正しいとかそういうことではなく、自分のルールを作っておけばいいのです。
相手のことは自分ではないのだから。
「私の中のこと」としておさめておけることが大切です。
どうしても無理なら、周囲に発信することです。
周囲というのは、家族であり、支援自治体のコトです。
介護に正解はありません。
子育てと同じです。
自分が苦しむ必要はなくて、一人じゃない事を忘れないで欲しいと思います。
介護、同居。
これは高齢者と向き合う時、切り離すことの出来ない問題です。
ただ、ムリなことは必ずあると思うので、自分たちがラインを決めて、相手を接することです。
ラインはその時々で揺れてしまうかもしれません。
でも、それも一つのルールとしてしまえばいい。
言ったもん勝ちではなく、自分の気持ちと自分の出来ることを分かっていれば、相手の言い分にも折り合いをつけることが出来ます。
だから、全てを背負う義務も義理もありません。
はっきりいえば、そう言うことなのです。
自分を殺して介護することで、自分が満足するなら構いません。
でも、そのことで周囲や相手を恨むようなら、その介護は止めた方がいいと思います。
自分の出来る範囲と相手が求める範囲が異なるとき。
ソコをどう埋めるか、悩んだら、決して一人で悩まずに、相談しましょう。
声を上げましょう。
私は同居していますが、義母が自分で生活出来ない場合、施設に入れることも夫と相談しています。
同居=介護ではないのです。