まるくくらす

日々の暮らしを少しでも気分良く過ごすために考えていることとか・・・

LO的 お友達という言葉

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

先日、平日のランチを楽しみました。

相手はライフオーガナイザーさん。

 

彼女とは、ライフオーガナイザーになってからのお付き合いで、早4年の時間が経ちました。

この間はその話題になりました。

 

 何がきっかけだったかな?

 

二人して考えたけど、はっきりとは覚えてなくて(笑)

 

お互いにLO歴4年になりますが、彼女はリピーターもいて、ブログも多くの人に読まれている。

雑誌のブロガーとしても活躍中のライフオーガナイザーをお仕事としています。

 

私は、フルタイムの仕事をしていて、ライフオーガナイザーとしては全然(汗)

 

ただ、私にとって彼女の考え方はとても心地いいのです。

こんな風になりたいと思える人。

 

ライフオーガナイザーにはそんな魅力を持つ人が多くいます。

彼女たちは、自分の生活を大切にしていて、そしてオーガナイザーとしても活躍している。

目標とは違って、憧れというか、なんだか幸せな気分いなれるのです。

 

そんな彼女との関係は「お友達」というべきかどうか・・・

悩みます。

「知人」「知り合い」では味気ないし、距離がある気がします。

でも「お友達」というカテゴリに入れるにはなんだか恐れ多い気がしてしまうのです。

話をすると幸せな気分になれる相手。

明日は前を向こうと思える気持ちにさせてくれる相手。

 

私は彼女にとってそんな風に思える相手でいられるだろうか・・・

いつもいつも明るく前を向いていられるなんてことはないと思うけれど、私が彼女と会った後の爽快感を、私も彼女に渡せているといいなぁと思います。

 

 

「お友達」という言葉が正直苦手な私。

距離感が図れずに、仲良くなってもすぐに離れていってしまう学生時代から学んだことは、親しい相手に甘えてしまうこと。

そして、私が親しいと思っているほど相手は私を親しいと思ってくれていないことがギャップとなり、結局、うまくいかなくなってしまうこと。

人との距離を取るのがとても難しいと思っていることもあって、私ごときが・・・という後ろ向きになってしまうこともしばしば。

 

大人になって、自分のテリトリーが出来て、ある程度一人の時間を持つことが出来て、やっと大人の距離感がつかめた気がします。

子供の世界とは異なる大人の世界だからこそ、色んな人と距離を測りながら生きていく。

夫であっても、家族であっても、友達であっても、言いたいことを言える間柄ではあるけれども、そこは対個人として、接する。

今、私が一番気を付けていることかもしれません。 

LO的 片づけについて №01

ライフオーガナイザーのKuraです。

 

随分ブログを書いていないので、年度の替わったこのタイミングで始めようと思います。

 

ライフオーガナイザーとして大きく活動はしていませんが、日々ライフオーガナイザーの考え方を取り入れながら仕事をしているつもりです。

 

ライフオーガナイザーのお仕事がメインとなればいいのですが、今回はお仕事の内容が気に入っていることもあり、メイン業務を派遣でのお仕事に切り替えています。

気に入ったのは、考え方を柔軟にしていないとできない仕事内容だということ。

ライフオーガナイザーとして学んだ「一人ひとりの片づけ方」に通じるものがあります。

それぞれの立場の方からの話を聞くことで、その中で私が選択できる最もいい方向を見つけていく。

私の考えではなく、みんなの考え方を取りまとめて、進めていく。

難しい仕事ではありますが、とてもやりがいもあります。

ただ、派遣の業務内容としては、少し難しいところもあり、そこもうまく調整し、要請していくのは、段取りでもあります。

ライフオーガナイザーとして学んだことが、仕事にも生かされていると思うのはこんな時です。

 

例えば、資料を作る時の場合でも、「誰に」「何を」伝えるのか?

色んな要素が絡み合います。

もちろん、一人に向けての資料であれば難しくはありませんが、会社というのは、個人に見せる資料はほとんどありません。

会議で使うなど、不特定多数の方に見てもらうことも多くあります。

自分で説明する場合もありますし、ほかの方にお願いする場合もあります。そんなときに、自分勝手な資料を作っては相手に伝わりません。

説明してくれる相手にも伝わりません。

伝えるためにはコミュニケーションも必要になりますし、相手のことを受け入れる体制も必要になります。

仕事だからこそ、コミュニケーションが大事なのです。

家族なら言わなくてもわかってもらえる。

友人なら言わなくてもわかってもらえる。

そうではない会社というカテゴリの中には、自分には思いもよらない考え方をする人もいるし、私の気持ちを知ることすらしてくれない人もいるのです。

それが悪いのではなく、それが当たり前のことなのだと今は思いますが、それが中々切り替えられない人も多いのです。

そうすると「仕事がやりづらい」と感じてしまうでしょう。

「当たり前」を受け入れるのに、時間がかかるからです。

中には順応性があり、早めに対処できる方もいますが、多くは短期間では受け入れることは難しい。

私は、派遣契約したからには、受け入れるのとは別次元で仕事を進めていく必要があると考えるので、無理に受け入れることはありません。

「こういうもの」だと割り切るようにしています。

 

「派遣」に限らず、正社員の方であっても、新しい職場への移動や、出向などによって環境が著しく変化することはあるでしょう。

今までの居場所が良かった場合、次でも同じように良かったと思えるような環境づくりを自らしていかなくてはいけません。

 

そこで「ライフオーガナイザー」で学んだことや、「アンガーマネジメント」で学んだことが役に立つのです。

 

私は、学ぶ前から同じようにしてきたつもりでも、理屈として知っているのと、知らないのとでは大きく感情面で異なってきます。

知っている安心感とでも言いましょうか?

それまでは、そのやり方が正しいかどうかが分からなくて不安だったけれど、学ぶことで私のやり方が「正しい」のではなく、「それでいい」という思いに変わりました。

 

「正しい」かなんて言うのは、だれにも分かるものではないので、「それでいい」と自己肯定することで、自分の作業が前に進みます。

上司からの指示がある、派遣社員としての働き方ではあるけれども、指示されたことの中で自分なりの工夫をしておくことで、柔軟な対応に繋げることも出来ます。

 

派遣は業務内容をはっきりと決めてから契約をすることも多く、内容にそぐわない業務は断ることも出来ます。

それが派遣のメリットでもあると思いますが、自分自身で範囲を狭めることにもなります。

許される限りの範囲で、自分の思う作業は準備しておきたい。

 

余談ですが、私は派遣で働くことを続けようと思っているため、今の流れは正直困るなぁと思います。(派遣社員も正社員に・・・という考え方という意味です)

自由な働き方をしてもいいと思うし、会社がもっと柔軟に対応できるはずのことをしていないから、矛盾が生まれているのではないかと思います。

会社で自浄作用がなくなっているから、法制に頼ることになる。

法制は決して何かを固定するためのものではないと思います。

どちらかと言えば、線引きに近い感じであってほしい。

処罰は必要だけれど、処罰対象にならなかったら、何をしてもいいという考え方は今の若人ではなく、ミドル、シニア世代が持っているからだと思います。

 

誰も見ていなければ、赤信号で渡ってもOK

成績がいいから、制服を着崩してもOK

車が来ていないから、横断歩道でなくても道を渡ってOK

など、この考え方は若い世代の考え方ではなく、今日本の全体的な考え方だと思います。

 

別に誰かのために生きるなんてきれいごとは言わないけれど、出来れば、ほかの人のことも考えて生きる方がいい。

ライフオーガナイザーとして、そんな風に生きていけるといいなぁと思っているのです。

 

タイトルとは全然違ってしまいましたが、私がどのように考えて片づけをしようとしているか・・・根幹のお話でした。

LO的 うちのライン

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

高齢者になると「認知症」と「介護」は向き合う人も多くなります。

この場合、同居とそうでない場合では、悩みが異なります。

同居の場合、近すぎる距離のため、相手が不安になり頼ってくることも多くなり、それに対し面倒くさいと思うことも多くなってしまい、受け答えがぞんざいになるかもしれません。

同居でない場合は、施設への入所や一人暮らしの状況が分からなくて、罪悪感が出るかもしれません。

特に、同居の場合、うまくいってない場合は、急に優しくはなれないでしょうし、うまくいっている場合に施設に入ってもらうことで罪悪感で心苦しくなるかもしれません。

 

夫は長男なので、夫の両親の面倒は夫が見るのが当たり前という中で、私と夫は面倒を見るのであれば、こちらから周囲にいろいろと周知しました。

何も厳しいことを言うのではなく、ラインを話しておくということです。

共働きの私たちは、介護で仕事をやめるという意識での働き方は考えていません。

そこで話し合いました。

「寝たきりになったら施設に入れる」

ただし、寝たきりにならず、自分で動ける限りは同居し、面倒を見るというものです。

やみくもに「施設に入れる」というわけではなく、義理ママの「家にいたい」という意思は汲むつもりですが、汲める限度と決めるということです。

私は、義理ママが食べたいものを自分で選んで、食べる。

自分でお風呂に入れる、トイレに行ける。

ゆっくりでいい、自分のペースでいいから、自分の意志で動けるうちは家にいてほしいと思っています。

別に、掃除や洗濯が出来なくてもいい。

義理ママが自分で動く満足感を得られているうちはそれでいいと思うのです。

確かに、結婚したての同居時にできていたことが、今は少しずつ出来ていない。

それでも、それは想定内のことです。

 

ただ、「おかしい」と判断したときは、夫に相談します。

例えば、期限切れの食品を「また食べられる」と言ってくる。

これは警告音がなります。

「まだ食べられる」の判断を、ラベルではなく、においで判断する。

さすがに夫もまずいと思うことが何度かあったため、その後からは義理ママの買ったものでも、賞味期限を確認して廃棄することもあります。

もちろん、義理ママにきちんと賞味期限などを伝えてから、廃棄しています。

 

義理ママが食べて、下痢になれば、脱水症状になったりするので、危険です。

夫に「まだ食べられる」といって勧めてきても、夫が体調を崩すことになります。

夫を病気にさせるわけにはいきません。

決して、息子に危険なものを食べさせたいわけではないだろうし、息子を大切にしていないわけではありません。

自分は食べれないけれど、息子に食べさせたいという気持ちは汲みたいと思いますが、そこは譲れません。

 

私は「夫」を大切に思っているかどうかを見極めているのかもしれません。

 

 

 

LO的 人生は長いから・・・

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

前回、エンディングを考えるという記事を書きました。

私個人の最後を考えましたが、今回は私の家族観について考えてみました。

 

結婚して15年が経ちました。

その間、子供が出来ないまま。

今はもう、子供を持つことを話題にしていません。

「出来たらいいね」と言っていたけれど、最終的にそのための原因追及や治療といったことはしませんでした。

夫は子供が欲しかったと思います。それは聞いているので・・・

ただ、そのために出来ない原因を病院に行って究明しようという動きには一度もなりませんでした。

夫からも、そして私からも。

私は原因を究明するのが怖かったし、夫もそこまでして欲しいかといえば・・・ということだったのかもしれません。

幸いにも、義理ママからの厳しい追及もありませんでしたから・・・

(夫側の親族からは厳しいお言葉が飛んでいたのは空気で分かったけれど、夫から私へ伝わったことはないので、止めていてくれたのだと感謝しています)

 

子供が欲しいと思ったことがあったのかと自問しましたが、私自身はそこまでの気持ちにはなれていなかった。

だから、不妊治療を考えることもなく、この年齢まで来たわけで。

今年が4度目の年女。

そろそろ「更年期」という二度目の思春期を迎えるにあたり、今、少しだけ思い返しています。

 

「子供が欲しかった?」

 

姪っ子や甥っ子はとてもかわいかった。

友達の子供もとてもかわいかった。

でも・・・

「産みたい」という情熱は不足していた気がします。

子供が怖いとか、子供が苦手とかそんなんじゃなくて、自分が親になるという認識がどうしても足りなかった。

怖かったのかもしれません。

子供は自分の分身ではないことは、私自身が子供としてそう思ってきたので、わすれることはないけれど、どうしても「子供」は「親の評価物」のような気がしてしまっているのでしょう。

私が悪いことをすれば、私自身も悪いけれど「親の教育が悪い」といつまでも言われる。

田舎で育った私はそれがとても怖かった。

成人しても、子供が出来ても、子供である私のことで親が悪く言われる。

それがどうしてもいやだった。

だから自分が親になった時に、子供のことで自分が評価されてしまうのが嫌だったのかもしれません。

私は私。

それはそうなんだけど、それだけでは済まされない。

他人の目を気にしなくていいのに、気になってしまう。

そして、自分以外のことで自分が評価されてしまうことへの嫌悪感。

私は自分勝手なんだと思います。

 

ライフオーガナイザーは「人それぞれ」という考え方があります。

自分はそう思っているし、そう思いたい。

 

簡単に「生みたくなかった」と言えればよかった。

でも、「生みたくない理由は?」と尋ねられた時に、答えられないことが何だか悪いことをしているような気になってしまう。

不妊治療にも一生懸命向き合うことなく、ただただ「できればいいね」で過ごしてきた結婚生活。

夫との生活はまだまだ続きます。

結婚当初とは変わった生活リズム。

そして、今後も変わっていくであろう生活リズム。

いずれにしろ、夫と暮らしていくというスタンスは変わらない。

だからこそ、夫とは程よい距離で暮らしたいと思っています。

付かず離れず。

いい距離間で生活できるように、今からはそちらに留意していくことにします。

 

「子供」がいればもっとにぎやかだったかもしれないと思いつつも、今の生活は嫌いではない。

自分と夫を中心に考えていく生活は決して寂しいものではない。

 

私たちは嫌でも年齢を重ねていく。

その時に隣にいる人は誰かを考えると、相手とのことを大切に思うことで暮らしは健やかに回るのではないかと考えています。

 

「生涯現役」でありたいと思うので、健康を重視していきたい。

「健康」であるためには、体調の変化、環境の変化、内面の変化、それぞれをないがしろにすることなく、一つ一つ丁寧に受け止めたい。

まだまだ人生は続く。

そう考えると、ついつい後回しにすることが出てきてしまうけれど、後々のことを考えて、後回しにしていいかも考えていくことが大切なことだと思います。

 

 

 

 

LO的 エンディングを考える

「余裕の連鎖で心も身体もすっきり」

ライフオーガナイザー Kuraです。

 

自分を終うための作業。

人生という祭りの後の整え作業。

 

以前にテレビで便利屋にフォーカスした番組を見ていて思ったのは、

高齢者の不安をあおる番組構成だったということ。

 

「一人暮らしの高齢者の孤独」と「離れて暮らす家族の罪悪感」を植え付けようとしているように感じました。

 

高齢者の病死、自然死が多くなったのは、長生きをして、健康な高齢者が増えているということでもあります。

もともと高齢者の人口は右肩上がりの今だからこその問題ともいえるでしょう。

 

それに個人の生活を尊重し、高齢者自身も自分の生活を崩したくないわけですから、お互いに距離をとってきたわけです。

だから、当たり前といえば当たり前のことだし、少しずつ増えている個人葬にも反映されています。

 

そんな中、以前に学んだ「エンディングノート」をもう一度振り返りました。

その時は、エンディングノートとは残された人への思いよりも、自分の思いをつづるノートだと思って学びました。

でも、今は手を煩わせたくない、という優しさの反面、自分のことだから、自分の思い通りにさせてほしいというエゴにも見えてしまいます。

 

子供のいない私は、高齢者になった時に、一人でいることも十分に想定できる。

火葬代を先に払うので、葬儀代行を頼みたい。

骨も墓も不要だし、残った親族の手も煩わせたくない。

税金を納めている市町村で、事務的に死亡処理を行ってほしいと思うのもエゴなのかもしれません。

 

自分が死んだ後のことを、子供や孫に任せるのが、現在までの一般的な流れです。

でも、私は子供を持たない選択をしました。

その時点で、今までの一般的な流れは望めないかもしれない。

だからこそ、自分の死後に誰かの迷惑になるのは嫌だと思ったのです。

 

そのために、第三者にゆだねられるように整えておこう。

それがエンディングノートの学びへの参加したきっかけだったことを、再確認できました。

 

冒頭の番組では、親族に頼まれて片づけをし、出てきた貴金属類は親族に手渡されました。

出てきた財産は親族でなければ受け取れないから、依頼は誰がしてもいいけれど、最終的に「親族」でないといけないことがたくさんあるのが現実です。

 だから、高齢者が亡くなった後の空き家が増えていても、親族がアクションを起こさない限り、第三者が動くことはできないし、市町村なども動くことができない。

そう考えると、自治体が新しく高齢者の居住を拒む理由もわからなくはないのです。

 

私は日本国籍である以上、死ぬことで戸籍が失われるのであれば、その時には事務的に国や市町村にかかわってほしいと思います。

 

自分がこの世から消えた後、思い出してくれる相手がいるのはうれしい。

でも、思い出してもらうだけでいい。

どうせ、全員にお別れをいうことなんて、出来ないのだから・・・

 

エンディングノートは残った人への意思表示ではなく、後始末をお願いするための何かでありたい。

 

ライフオーガナイザーは自分の仕組みを作ります。

空間、情報、時間。

そこに私は人生最後の仕組みも入れたい。

 

家族にしかできないこと。

家族にしてほしいこと。

行政が関与していいこと。

行政しかできないこと。

明確にすることで、家族任せの作業を福祉の一つとして進めることができると思います。

もちろん、有料だと思ってますけど・・・

 

本音は「安心して死にたい」。

生きているときから、死んだ後のことまで心配して生きたくない。

そして、死んだ人の面倒を一切合切押し付けあわない社会であってほしい。

 

なくなった人の思い出と生きる人たちが、その人の思い出を良い意味で懐かしむことができるようになりますように。